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理事長室より

宮本武蔵(2014年4月14日)

 4月13日は巌流島で武蔵と小次郎が決闘した日である。2012年は1612年(慶長17年)の決闘からちょうど400年に当たり、それを記念して巌流島を「決闘の聖地」とよび、「巌流島決闘十番勝負」をはじめとして様々なイベントが繰り広げられたことは記憶に新しい。巌流島は関門海峡に浮かぶ無人の小島で、正式名称は船島、島の位置は下関側に近く、住所は下関市大字彦島字船島である。決闘当時は「小倉の絶島」で、細川藩の下で決闘が行われた、とされる。現在は観光スポットとなっており、下関唐戸桟橋と門司港から観光船が頻繁に出ている。
 今回、宮本武蔵を取り上げたのは、司馬遼太郎『宮本武蔵』(朝日文庫、2011年10月第1刷、初出は「週刊朝日」1967年6月23日号~10月6日号連載、単行本では『日本剣客伝・上』朝日新聞社、1968年)を紹介するのが目的である。あわせて武蔵をめぐる話題を提供したい。
 宮本武蔵については吉川英治原作がよく知られており、たびたび映画化、テレビドラマ化されてきた。若い人たちには井上雄彦作のマンガ『バガボンド』の原作といったほうが分かるかもしれない。武蔵の最近作は2014年3月15日、16日にテレビ朝日から放映されたもので、武蔵は木村拓哉、小次郎は沢村一樹、お通は真木よう子である。映画やドラマのすべてをみたわけではないが、もっとも印象に残っているのは、戦後最初の作品となった東宝制作の宮本武蔵3部作(1954~56年)である。監督稲垣浩、武蔵・三船敏郎、小次郎・鶴田浩二、お通・八千草薫、朱美・岡田茉莉子、お甲・水戸光子であった。何とも懐かしい顔ぶれである。また、中村錦之介(のち萬屋錦之介)の武蔵では、お通を入江若葉、お甲を下関出身の小暮実千代が演じている。近時では、NHKの大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」(2003年)で、市川新之助(現海老蔵)が武蔵、米倉涼子がお通の役で話題となった。
 吉川英治の『宮本武蔵』(1936~1939年刊)は、単なる剣豪小説ではなく、武蔵を、沢庵などの教えを受け、剣禅一如を求める求道者として位置づけ、人間成長物語として描いている。また、お通や朱美との関係など稔る当てのない悲恋物語にもなっている。こうした点が広く読者や視聴者に受け入れられてきたのであろう。吉川武蔵はもちろんフィクションで、お通や朱美、お甲は架空の人物であり、また、武蔵は沢庵とは一度も会っていないとされる。
 吉川武蔵は巌流島の決闘で終わっているが、その後の武蔵については、小山勝清『それからの武蔵』(集英社文庫版全6巻、1980年、単行本の初出は講談社刊全6巻、1967年~1968年)がある。こちらは巌流島の決闘から筆を起こし、熊本での武蔵終焉までを描いている。武蔵が兵法者としての完成を目指すという求道者像をいっそう鮮明にし、かつ忍法者も登場して伝奇小説的要素も持たせている。また、お孝(お通の後身)、お悠、お松、由利姫など武蔵を巡る女性群が彩りを添えている。兵法者小説としての完成度はかなり高いので、剣豪、兵法、剣道に関心のある人にはお薦めである。実はこの小説はかつての研究仲間が一押しの本であり、関心を持ち続けていたが、ずっと読むことを得なかった。このたび武蔵を取り上げるにあたって、ネットで集英社文庫版を購入し全巻を読み終えた。感想は面白かった。
 さて、ようやく司馬遼太郎の『宮本武蔵』である。こちらはできるだけフィクションを排した歴史小説である。武蔵は「自分は播州の武士である」と称していたが、司馬は武蔵が生まれたのは美作国讃甘郷宮本村と断定し、宮本村はむかしもいまも三十戸程度であるとしている。武蔵の父・無二斎は武芸者であったが、「暗い、狂気をおびた人物」で、「この狂気は武蔵にも遺伝しており、むしろこういう精神体質こそ、武蔵をして生涯その芸をつきつめさせたエネルギーになっていたにちがいない」「(武蔵は)生涯娶らず、生涯、婦人をちかづけることもなかった。幼少のころの家庭環境のくらさと、あるいはつながりがあるかもしれない」。武蔵は関ヶ原の戦いに敗軍側の士卒として加わったため、武士としての栄達を断念し、兵法者として生きることを決断した。その後吉岡一門との決闘をはじめ数々の勝負に勝利した。そして、巌流島の決闘に臨むことになったのである。小次郎のこと、沢庵が説いた剣禅一如への関心などに触れたうえで、舞台を小倉に移し、決闘を前にした武蔵と小次郎との駆け引きが展開される「山桃」の章は本書の中ではもっともフィクション的要素が強いように感じられる。
 決闘は一瞬で終わった。「武蔵は、小次郎が初太刀をふりおろすと同時に跳ねあがり、右片手をもって四尺一寸八分の木太刀を振りおろし、小次郎の脳天をくだいた。が、撃ちが浅い。(小次郎は)倒れつつも剣を横に払ったが及ばず、武蔵の二ノ太刀を胸に受け、肋骨を砕かれ、即死した」。この時、武蔵は数え29歳だった。この決闘については諸説があり、ドラマなどでも様々に表現されている。司馬遼太郎もいくつかの挿話についてふれ、自説を補強している。
 その後の武蔵は、京、江戸をはじめ各地を巡り、知名の兵法者に会ってその力量を察するなどしたが、「三十歳以後は勝負をすることを避けた」とする。諸芸、すなわち舞、大鼓、小鼓などへの関心をふかめ、自分の兵法をみつめなおすとともに、禅にも傾注した。司馬は「かれがいわゆる開悟したかどうかはわからない」としている。武蔵は仕官にはこだわったようである。武蔵は将軍家直参を望んだがかなわず、次の尾張徳川家では、「武蔵の兵法というのはひとに教授できないものである」という柳生兵庫助の武蔵論があり、仕官は実現しなかった。小倉小笠原藩の招聘は武蔵がことわり、晩年になって熊本細川家からの招聘を「客分」という身分で受け入れた。そして、武蔵は熊本で晩年を過ごし、熊本郊外の金峰山にある霊巌洞という洞窟で座禅をしているときに死を迎えた。62歳だった。
 このような顚末をふまえて、司馬は「武蔵の後半生は、いわば緩慢な悲劇であった」「かれは、自分にふさわしい地位を得ようとした。それが、かれにとって業になった」と論じた。司馬は、武蔵の行跡をつぶさに検討し、人間としての本質を見極めて、「開悟したかどうかはわからない」「武蔵の後半生は、いわば緩慢な悲劇であった」と冷徹な評価を行ったのである。附言すれば、司馬遼太郎は自分のテーマは「日本人とは何ぞや」だったと語っている(BS朝日「昭和偉人伝・作家 司馬遼太郎」2014年1月29日放送)。この『宮本武蔵』も「日本人とは何ぞや」という視点から読み直してみる必要がありそうである。
 武蔵が自らの兵法について死の直前にまとめたのが地水火風空の五巻からなる『五輪書』である。岩波文庫版『五輪書』の渡辺一郎の解説によれば、「全巻にわたって武蔵独自の兵法観、および二刀兵法の太刀筋の正当性を主張し」「万里一空という武蔵の人生観に到達する過程を、「地之巻」では、大の兵法すなわち将帥用兵の道、「水之巻」では、小の兵法すなわち撃剣稽古の道、「火之巻」では、合戦の理、「風之巻」では、他流の評論にあてて説いている」。そして「空之巻」では、兵法の道において「まよひの雲の晴れたる所こそ、実の空」、すなわち「自由の境地」であるとする。『五輪書』は今日においても組織の戦略・戦術や個人の修行・修養について学ぶことができる、一読の価値がある古典である。
 追記 先日、「日本の風景物語 「草枕」の舞台 熊本・小天」(BS朝日3月11日放送)というテレビをみていたら、夏目漱石が明治30(1897)年に熊本から金峰山を越えて小天に至る、いわゆる「草枕」の旅が紹介された。漱石は武蔵が籠った霊巌洞にも立ち寄ったという。私も足の達者なうちに「草枕」の旅を試みてみたい、と考えている。