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理事長室より

上杉鷹山(2014年7月28日)

 最近、米沢藩主・上杉鷹山の治世が注目されている。キャロライン・ケネディ駐日米国大使が父のケネディ元大統領が上杉鷹山を尊敬していたと、2013年11月27日の講演で話したことが直接のきっかけとなったようである。大使の発言は、「父は上杉鷹山の優れた統治力と公益への献身を称賛していました。鷹山は民主的改革を導入し、さまざまな階級の人々に地域社会に奉仕することを推奨しました」というものだった(BS歴史館「江戸のスーパー変革者 上杉鷹山」2014年1月16日放送)。
 NHKでは、BS歴史館「江戸のスーパー変革者 上杉鷹山」に続いて、Eテレ「先人たちの底力 知恵泉」で「傾いた組織を立て直せ!上杉鷹山(前編・後編)」(2014年6月17日、24日)と立て続けに放送した。また、BS-TBS THE歴史列伝「上杉鷹山」(2014年7月25日)も放送された。なお、NHKは「歴史秘話ヒストリア」で2012年3月21日に「上杉鷹山 天災と戦う!奇跡の復興物語」を放送しているが、これはおそらく東日本大震災を意識した番組であろう。
 ケネディ元大統領が上杉鷹山について語ったのは、1961年大統領就任直後の記者会見で、日本人記者団から「あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか」と質問され、「上杉鷹山です」と答えた、と伝えられている。この発言については真偽を巡って論争があったが、今度の大使の発言によって、元大統領の言葉が裏付けられたと受け止められているようだ。ケネディが上杉鷹山を知ったのは、Kanzo Uchimura “Representative Men of Japan” だったといわれる。その日本語訳が、内村鑑三『代表的日本人』で、鈴木範久訳が岩波文庫(1995年)で刊行されている。本書には、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5人の事跡が収められている。

 上杉鷹山(1751~1822)は、明和4年(1767)から天明5年(1785)まで、米沢藩の第9代藩主で、隠居後も藩政改革に努め、傾いていた藩財政と藩政を立て直し、米沢藩中興の名君として知られる。死後には名君鷹山像が形作られ、戦前の小学校の修身教科書にも載っている。多くの逸話・名言が残されているが、なかでも「なせば成る、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人のなさぬなりけり」はよく知られている。
 明和4年、上杉鷹山が藩主になったころ、米沢藩の財政は破綻寸前であった。鷹山は「入るを量りて出ずるを制す」の精神で、財政改革に取り組んだ。その際、次の「三助」の精神で取り組むことを指示したとされる(童門冬二『小説 上杉鷹山』153頁)。
  一、自ら助ける。すなわち自助
  二、互いに近隣社会が助け合う。互助
  三、藩政府が手を伸ばす。扶助
 財政改革では、藩主を先頭に大倹約を実施した。鷹山は、みずからが倹約を旨とし、藩主の生活費を従来の7分の1に切り下げ、食事はつねに一汁一菜で、衣服も木綿に限ったといわれる。また、会計一円帳を作製し藩の年間収支を算出し、藩財政の赤字構造を明らかにした。大きな赤字要因の商人からの借受金については、そのほとんどを永年賦・無利息とすることに成功し、出ずるを制することに努めた。
 入るに関しては、農村復興と産業振興に取り組んだ。農村復興では、家臣総出の労役で、新田開発、橋、川、堤の整備などに努め、農民を督励した。また、義倉(備籾)を設置して凶作や飢饉の備えとした。産業振興では、国産物奨励として、漆・桑・楮各100万本植立計画を発表した。漆木に関しては、農地64万本、空地26万本、家中屋敷7万5千本、町屋敷、社寺地、合計100万本の計画で、植立費(女木1本につき20文)を支給し、成実を藩が買い上げた。三本植立の元金には、御用商人からの借受金と実益金など5000両をあてた。その効果は、漆木では、新植立分は約52万本、新旧合計では100万本に達し、天明5年の藩の製蝋買上額は6744余両にあたり、その純益はかなりのものと推定されている。また、縮織では、越後の技術を導入して藩営の縮布製造場を設け、技術の伝習に努めるとともに、農民等への出機生産も進めた。その他では、製塩、和紙、藍玉、青苧などの生産を奨励した。
 また、人材育成は治国の根元であるとして、藩校興譲館を創設した。興譲館の語源は、「大学」の「一家仁一国興仁、一家譲一国興譲」(一家に仁徳があれば国中に仁徳が興り、一家に謙譲があれば国中に謙譲が興る)にある。興譲館は「古来の風俗を保ち、藩是に従う忠実な徳行の士を育成する場」となった(横山明男『上杉鷹山』134頁)。

 天明5年、鷹山は隠居し、世子の治広が第10代の藩主を襲封した。治広の家督相続に際して、次の「伝国之辞」を与えた(横山前掲書、158頁)。
  一、国家は、先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物には無之候
  一、人民は、国家に属したる人民にして、我私すべき物には無之候
  一、国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民には無之候
 国=藩は代々継承していくものであり、藩に属する領民とともに、藩主の私物ではない。藩主は領民のためのもので、藩主のために領民があるのではない、という意味であり、藩主の専制を戒めるものであり、藩主機関説といってもよい(童門冬二『小説 上杉鷹山』621頁)。
 鷹山が隠退後の米沢藩は、天明の飢饉、改革の停滞などで再び経済・財政の困難に直面した。鷹山は藩主後見職として、改めて藩政改革の政治指導にあたり、財政と経済の再建を果たした。天明の飢饉に対しては、米沢藩は他領から米を購入し領民に配分して、餓死者をひとりも出すことはなかったとされる。農村では「伍十組合」を設置して農村復興に取り組んだ。伍十組合制度によって、五人組を基礎単位とし、十人組、一村組合、五ヵ村組合を組織して、年貢完納の連帯責任を強化するとともに、窮民や災害の互助を奨励した。また、特産品奨励では、藩の統制と問屋仲間の活用を組み合わせる新たな販売方式を生み出した。このような改革が実を結んで、米沢藩が借金を完済できたのは、鷹山死去の翌年1823年のことであった。

 幕藩体制は、幕府が中央政府、藩は独立性を持った地方政府で、両者が並立する政治体制であった。鷹山が取り組んだ藩政改革は、財政の破綻に瀕した地方政府の行財政改革といえる。徹底した歳出削減、藩債務の棚上げ、産業振興の推進という3つの方策であった。このうち産業振興では、新たな借受金も含めて産業振興資金を確保し、植立資金の給付、技術の導入、販路の確保などによるイノベーションを遂行して成功を収めた。その際、「三助の精神」、すなわち鷹山版の「新しい公共」に取り組み、藩主、重役、藩士、領民の協働を目指したのである。
 現在、上杉鷹山がメディアや行政でよく取り上げられるのは、中央政府及び地方政府の行財政の厳しい状況、相次ぐ災害・事故の発生などに直面して、鷹山による行財政改革と産業振興が成功事例として参照されるべきである、とされるからであろう。なかでも、公助の限界を踏まえて、自助、共助の必要性が重視されている。例えば、内閣府のホームページの防災情報のページでは、上杉鷹山の「三助」の思想が紹介されている。また、米沢信用金庫と山形大学(工学部)との連携事業に関して、「産学官金連携は、上杉鷹山が残した「三助」の現代版完成形」とされる。
 鷹山ブームと言ってもよいが、鷹山の改革は、あくまで藩政という枠組みのもとでの改革であり、下からの自発性を引き出しつつも、上からの指揮命令に依存するものでもあったことに、十分留意すべきであろう。自助はもちろん大切であるが、疲弊した地域の再生のためには、呼び水としての「適切な公助」が必要不可欠であり、行政による「適切な選択と集中」が強く求められている。

【参考文献・映像資料・インターネット】
内村鑑三『代表的日本人』(岩波文庫、1995年)、横山明男『上杉鷹山』(吉川弘文館、、1968年)、童門冬二『小説 上杉鷹山』(集英社文庫、1996年)
NHK BS歴史館「江戸のスーパー変革者 上杉鷹山」(2014年1月16日)、NHK Eテレ 知恵泉「傾いた組織を立て直せ!上杉鷹山」(2014年6月17日、24日)、BS-TBS THE歴史列伝「上杉鷹山」(2014年7月25日)
内閣府防災情報のページhttp://www.bousai.go.jp/
経済産業省東北経済産業局http://www.tohoku.meti.go.jp/