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理事長室より

土光敏夫(2014年8月12日)

 土光敏夫も最近改めて注目されている。7月16日のBS朝日の「昭和偉人伝」が土光敏夫を取り上げている。また、出町譲『清貧と復興 土光敏夫 100の言葉』(文藝春秋、2011年、文春文庫、2014年)、出町譲『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(文藝春秋、2013年)が出版されている。
 学生諸君は、土光敏夫についてあまり知らないかもしれないが、東芝の経営再建に成功した経営者であり、その後、臨時行政調査会会長に就任し、「行革の鬼」として大ナタを振るった。時代閉塞の現代にあって、土光のようなリーダーが出てくることが切望されているのだろう。その人生は挑戦と清廉・質素を旨としたものであった。その一生を垣間見てみることにしよう。

 土光敏夫の略年譜
   1896年 9月15日 岡山県御野郡大野村(現岡山市)に生まれる
   1910年 3月 東京高等工業学校(現東京工業大学)機械科卒業、石川島造船所入社
   1946年 4月 石川島芝浦タービン社長
   1950年11月 石川島重工業(現石川島播磨重工業)社長(1964年まで)
   1965年 5月 東京芝浦電気(現東芝)社長(1972年まで)
   1974年11月 経済団体連合会会長(1980年まで)
   1981年 7月 臨時行政調査会会長(1983年3月まで)
   1983年 7月 臨時行政改革推進審議会会長(1986年まで)
   1988年 8月 4日 死去(91歳)

 一見すれば、順風満帆の人生とみえるが、現実には険しい坂道を乗り越えてきたのである。県立中学受験に3回失敗し、私立中学に入学した。高等工業にも2回目の受験で合格した。就職でも残り物の石川島であった。
 石川島ではタービンの設計に当たり、純国産タービンの受注に成功したが、自身は反対であったタービン製造の共同出資会社に転属した。戦後、同社の社長に就任したが、経営の危機にひんしていた本社の再建を託され、石川島重工業社長に就任した。折からの朝鮮戦争の特需ブームに乗って、石川島の業績はV字回復を遂げた。ところが、造船疑獄事件で、20日間の拘置生活の憂き目にあった。土光の家のボロ家と電車通勤も幸いして、「関係なし」となった。土光が得た教訓は「公私を峻別して、つねに身ぎれいにし、しっかりした生き方をしておかなければならない」ということであった。
 東芝社長には、尊敬する石坂泰三東芝会長の懇請をうけて、「就かされ」た。当時、東芝の社長室の中に風呂やバーがあったが、すぐに取り壊し、矢継ぎ早に改革に取り組んだ。幸運なことに、いざなぎ景気という好景気の波にのって、東芝の業績は急速に回復した。
 経団連会長の就任は、否応もない突然の会長指名で決まった。土光経団連は「戦う経団連」の旗を掲げ、様々な問題に取り組んだ。政治献金問題では、「経団連は、政治献金の金集めの代理業はやらない。そもそも献金は個人レベルでやるべきである」との土光の発言をめぐって事態が紛糾し、窓口を国民協会から国民政治協会へと改める再編成によって決着をみた。
 臨時行政調査会の会長就任も突然のことであった。鈴木善幸首相が行政改革に取り組む方針を打ち出した。土光への会長就任の打診は、中曽根康弘行政管理庁長官からであった。外堀を埋められた土光は、会長引き受けの条件として4か条の「申し入れ事項」を鈴木首相に出した。

一、行政改革の断行は、総理の決意あるのみである。臨時行政調査会長を引き受けた以上、審議を十分に尽くして満足のいく答申をとりまとめるよう、最大限の努力をはらうが、総理がこの答申を必ず実行するとの決意を明らかにして戴きたい。とくに、総理は、各省庁に対してはもとより、自民党内に於ても強力なリーダーシップを発揮して戴きたい。
二、行政改革に対する国民の期待は、きわめて大きいものがある。アメリカのレーガン政権を見習うまでもなく、この際徹底的な行政の合理化を図って「小さな政府」を目ざし、増税によることなく財政再建を実現することが、臨時行政調査会の重大な使命の一つである。総理としてこの点を明らかにして戴きたい。
三、行政改革は、単に中央政府だけを対象とするのではなく、各地方自治体の問題も含め、日本全体の行政の合理化、簡素化を抜本的に進めていくことが必要であると思う。この点についても、総理のお考えを明らかにして戴きたい。
四、またこの際、3K【注・・・国鉄、健康保険、米】の赤字解消、特殊法人の整理、民営への移管を極力図り、官業の民業圧迫を排除するなど民間の活力を最大限に活かす方策を実現することが肝要である。この点についても、総理のお考えを明らかにして戴きたい。
                                           以上

 一国の首相に対して、不躾ともいえる直截な表現であるが、鈴木首相はこれを受け入れ、「政治生命を賭ける」と言明したのである。土光臨調による主な答申内容は、「増税なき財政再建」のためにゼロシーリングによる経費の切り詰め(第1次答申)、行革に関する許認可権の整理合理化(第2次答申)、国鉄の分割・民営化、電電公社の民営化、専売公社の民営化(第3次答申)、行革推進体制の在り方(第4次答申)、郵政三事業改革、財政投融資改革(第5次答申)などであった。これらの答申は、行財政改革に先鞭をつけ、JR(国鉄)、NTT(電電公社)、JT(専売公社)発足の道筋をつけ、また、郵政改革、財政投融資改革にも一石を投じたのである。

 つぎに、土光敏夫の生活と逸話のいくつかについて紹介したい。土光は「めざしの土光さん」と呼ばれるほど、質素な生活を送った。土光は石川島時代に習慣づけられた、朝4時起床、夜11時就寝を原則とし、早朝と就寝前に法華経を30分ほど読経する。石川島社長時代は8時出勤、東芝社長時代は7時半出勤を続けた。(念のため付け加えれば、当時の会社の始業時間はおそらく9時、重役の出勤は社用車で10時頃だった。土光の出勤はバス、電車によっていた。)
 食事は必要最小限の物を摂取すればよく、朝晩は一菜一汁に近く、昼もそばなど、夜は宴会を避け、夕食後は書斎で読書という生活であった。自宅は古い木造二階建て、風呂の燃料は石炭、家の補修や庭の手入れは土光がやった。冷暖房設備もなかったが、東芝の社長になって、無理やり冷暖房設備を付けられたが、来客用としか使わなかったという。カラーテレビも1972年にカラーテレビ生産100万台突破を祝って、深谷工場の従業員からのプレゼントだった。
 土光は夜の宴会嫌いで知られていた。1975年5月、英国のエリザベス女王歓迎の宮中晩餐会の招待状が経団連会長の土光に届いたが、「老齢の故」をもって断った。その後は夜の宴会は容易に断ることができるようになったという。
 土光夫妻の1か月の生活費については、東芝社長時代のことと思われるが、ちょっと前までは3万円くらい、今は生活費もかかるようになったが、それでもせいぜい10万円くらい、と回顧している。また、1982年の土光の年収は5100万円、橘学苑に3500万円を寄付した。おそらく可処分所得のうち、生活費を除いて、ほとんどを寄付したと思われる。橘学苑は、母親の登美が1942年4月に創立した橘女学校の運営母体として、1945年4月に設立され(当初財団法人、1951年学校法人)、橘女学校・橘女子高校の運営にあたった。土光も登美の死去後に校長や理事長として長く経営にかかわった。
 仕事に関しては、率先垂範をモットーにした。東芝社長に就任後直ちに「一般社員は、これまでより三倍頭を使え、重役は十倍働く、私はそれ以上に働く」とハッパをかけた。

 土光が東芝社長に就任してからの社内外での発言をスッタフが記録・整理して、毎月、社内報に「トップ指針抄」として掲載し、それが4年有余でほぼ1千に達した。すすめもあって、百か条を選んでまとめ、講演「私の経営哲学」も収録したのが、土光敏夫『経営の行動指針』である。この本をベースに雑誌記事を追加し、新たに行革に関する事項を加えて編集したのが、PHP研究所編『土光敏夫信念の言葉 人生・経営・行革を語る200話』である。出町譲『清貧と復興 土光敏夫 100の言葉』は、土光に関する文献から100の言葉を選んで、解説を加えたものである。これらの本から次の「土光敏夫10の言葉」を選んだ。

①「日々に新たに、日々に新たなり」(今日という一日に全力を傾ける、今日一日を有意義に過ごす)、②「できない」「むり」「むずかしい」は禁句(たいせつなのは、その問題は、どうすれば解決できるのか、どうやったら達成できるかを考える前向きの態度である)、③「見(けん)の目」「観(かん)の目」(問題をみても問題としてとらえないのが「見の目」、小さな兆候をみて、大きな問題を捜しだすのが「観の目」)、④「面壁一生」(毎日カベを一つ見つける。カベを破ってゆけば、進歩がある)、⑤「地力」(地力をつければ、苦しいときに乗り越えられる)、⑥「仕事の報酬は仕事である」(人間の喜びは金だけからは買えない、満足をふやすことのできるのは仕事そのものだ)、⑦「立場の転換」(チームワークでは、だれが正しいかではなく、何が正しいかを考える)、⑧「将来へのビジョン」(創造的な企業は、必ずビジョンをもっている。企業が社会に存続する意味を将来に向かって明示するものが、ビジョンである)、⑨「なぜ行革は必要か」(行革を行うスタンスは、自立自助という勤労精神を失わないようにすること)、⑩「個人は質素に、社会は豊かに」(母・登美の教えであり、私の行革の基本理念である)

 現代日本が抱える諸問題を解決するためには、土光のように企業や国のため私心なく改革に邁進する人物が必要である。しかし、土光のような質素な生活、仕事一筋の人生は、現代の人々にとっては、時代の変化もあり、望むことは難しい。これは現代のジレンマといってもよいが、土光の思想は現代に継承してほしいし、私もそのように心がけたいと思っている。

■主な参考文献
 土光敏夫『経営の行動指針』(産業能率大学出版部、1982年42版、産業能率短期大学出版部、1970年初版)
 土光敏夫『私の履歴書』(日本経済新聞社、1983年)
 土光敏夫『日々に新た』(東洋経済新報社、1984年)
 PHP研究所編『土光敏夫信念の言葉 人生・経営・行革を語る200話』(PHP研究所、1986年)
 出町譲『清貧と復興 土光敏夫 100の言葉』(文藝春秋、2011年、文春文庫、2014年)
 出町譲『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(文藝春秋、2013年)