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理事長室より

「自分史ときどき昭和史」(2014年10月06日)

 題名に魅かれて、山藤章二『自分史ときどき昭和史』(岩波書店、2014年)を購入して読んでみた。期待に違わず面白く一気に読み切った。山藤章二といえば、独特の戯画化した似顔絵でよく知られている。この本ではあの似顔絵誕生の「秘話」も明らかにされている。
 さて、この本は、「自伝」であるが、自伝としては型破りのものであり、このような自伝はこれまで読んだことがなかった。「自分史」の発端は、自分のことを本として残したいという「私情」からだという。そして、どう書くかは山藤流の文章法でゆく。それは、「脳の中に浮かんだ順番にどんどん書きつけてゆく」方式で、「記憶の断片が、てんでんばらばらに浮かんでくる」ことになる。そこで余談、寄り道、エピソードなどは、箸休め的効果をねらって〈余談〉として記述する、というものだった。

 山藤章二は昭和12年2月20日に目黒に生まれた。山藤の少年時代はたいへん厳しいものであった。生後4か月のときに父が亡くなり、戦時中には学童疎開と空襲による自宅焼失にあった。そして、昭和24年から30年までが山藤の中学高校時代だった。「別に何もなかった」としているが、アメリカ映画などアメリカ文化にふれ、政治や社会には無関心な無思想少年として成長した。

 その少年は高校の美術部の部室で、たったひとりの部員の醸し出す「芸術的雰囲気」に呑まれて、親友と入部し、3人の美術部となった。男子校の文化祭で展示された昔の先輩の「ポスター」に“芸術”的な衝撃を受け、山藤にとって「ファイン・アート(純粋芸術)との決別、大衆文化(サブカルチャー)への傾斜」のきっかけとなった。大学進学では、芸大受験に3回失敗した。やむなく前年の昭和31年に入学した武蔵野美術学校(ムサ美)デザイン学科でデザインを学んだ。そして昭和32年の「日本宣伝美術会」展(通称「日宣美展」)で山藤は次席の「特選」を受賞し、大いに自信を深めた。ちなみに、グランプリの「日宣美賞」を受けたのは、和田誠(多摩美)だった。

〈余談〉昭和33年には、皇太子と正田美智子さん(現天皇・皇后)の婚約が発表され、ミッチ―ブームが盛り上がった。高度経済成長が始まり、テレビが普及し、雑誌が一斉に刊行され、「広告の時代」がやってきた。広告代理店「電通」が注目され、広告制作専門会社も創られた。寿屋(現サントリー)の宣伝部が独立して設立された「サン・アド」の活躍に刺激を受け、松下電器(現パナソニック)も宣伝部を分離し、「ナショナル宣伝研究所」(通称・ナショ研)を設立して、東京に進出した。

 山藤は昭和35年にムサ美を卒業し、「日宣美展」の特選を背負ってナショ研に入社した。会社では地味な広告原稿を作っていたが、所長の指示で制作した作品が「広告電通賞制作者賞(ポスター部門)」を受賞した。その後はサラリーマン生活も「順風満帆」であったが、唐突に4年間在籍したナショ研を辞めた。「辞めた理由」は“頼む側”ではなく、“頼まれる側”の人間になろうと思ったからだった。家に帰って妻に報告すると、「そう。話し合いは丸くおさまったの。よかったわね。しばらくはのんびりしてください」という反応だったという。

〈余談〉 山藤は昭和36年正月に結婚した。当時の月給は3万円、アパートの部屋代が8500円だったそうだ。私の学生時代(昭和38年~42年)は、東京の部屋代は1畳約1千円が相場で、私の下宿は4畳半で4500円程度であった。昭和42年に大学を卒業し、民間企業に就職した時の初任給は2万8千円だった(前年は2万5千円)。当時は高度成長期であり、月給も毎年上昇し、部屋代も何年かごとに値上げされるという時代ではあったが、山藤と私との年の差7年を考慮すると、物価上昇もほどほどであったように思える。

 昭和39年にフリーになってからは、山藤はどんな注文にも応じたが、物足りない。“俺の絵”を見つける旅が始まった。まず「名前を出す」ために、妻のアドバイスで一流作家のさし絵を担当することができた。最初は松本清張の「Dの複合」(雑誌『宝石』連載)だった。しかし“俺の絵”は「さし絵」ではなかった。その後、大阪万博をおちょくる「バンパク戯評」(『漫画讀本』掲載)や「イラスト戯画」(落語「小言念仏」のご隠居さん=山藤の“眼”で描く戯画)など新しい作品に取り組んだ。そして昭和44年、野坂昭如とのコンビによる「エロトピア」の連載が『週刊文春』で始まった。「エロトピア」は、野坂の文章に山藤が「文章に拮抗したり反論したり茶化したり」するイラストをつけるという、漫才調「掛け合いコラム」だった。このコラムこそが “俺の絵”すなわち「山藤流イラスト」の誕生となった。(「山藤流イラスト」に関するご本人のうんちくは、ぜひ本書で。)その後の山藤章二の活躍は御承知の通りである。

 この本の最終章は山藤章二と天国の立川談志との架空対談である。山藤はたいへんな落語通であり、本書でも落語に関わることが随所にでてくる。その山藤に大きな影響を与えたのが談志であり、山藤は「落語立川流」の「顧問」を引き受けていた。架空対談では談志の思い出や山藤流の談志論が語られており、談志を通して「自分史と昭和史」を総括するという仕掛けになっている。