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理事長室より

「大学教育と落語」(2014年10月22日)

 大学教育のあり方もずいぶん変わってきた。私たちの学生時代には、文系学部では大教室での一方的な講義で、内容的には学問的な知識を教授するものが大半だった。現在では、大学教育の目標は、「何を教えるのか」よりも、「何ができるようになるか」に力点が置かれるようになってきた。教育方法においても、課題探究や問題解決等の諸能力を培うために、双方向型授業、PBLという課題解決型授業、インターンシップをはじめ体験型授業など新しい教育方法が推奨されるようになっている。
 このように教育目標や教育方法が変化してきているが、やはり重要なのは教育の内容と質であろう。私たちの学生時代には、教科書やノートを読みあげる先生もいれば、自らの新しい研究成果を早口でしゃべりまくる先生もいれば、ノートを持たずチョーク1本で110分を澱みなく講義する先生もいた。自分でも満足し、学生もよく理解できたと思える講義は20数回のうち1、2回しかなかったと語った著名な学者もいた。また、教室で分からなさそうな学生に語りかけるように講義を行い、頷きで理解の程度をはかったという先生もいた。このような講義に対して、学生たちは、講義の評判や自らの評価に基づき、聴くに値する講義を選択して聴講していたのである。
 また、ある大学の法学部の先生は、私の講義はノートを取らずにしっかり聴くようにと最初の講義で指示し、期末試験の問題はつねに「講義を踏まえて自問自答せよ」というものだったという。私もまねをして、別々の大学で1回ずつ「講義を踏まえて自問自答せよ」という問題を出したことがあったが、まったく「自問」ができていなかった。現代の教育の目標として、「課題発見力」「問題解決力」の養成があげられるが、私の経験からすれば、なかなか難しい「課題」である。
 講義において、大切なことは内容であるが、話し方も重要な要素である。名講義をされた先生は、話し方にも工夫を凝らしていたようだ。話し方の達人である講釈師(講談師)や噺家(落語家)の話しぶりを参考にした先生もいた。今回の「理事長室より」は、実はここまでが枕で、これからが本題で「落語と大学教育」の話をしたい。

 私が初めて落語を聞いたのは、小学生のころ父親に連れられて入った、上野の鈴本演芸場でのことで、確か大トリが五代目柳家小さん(1915年~2002年)だった。小さんは剣道をやっていて、私の伯父が警視庁の剣道師範をしていた関係で、ときどき話を聞いたこともあり、親近感を覚えていた。また、落語もラジオで何度も聴いたが面白かった。
 その小さんの弟子が当代を代表する噺家である立川談志(1936年~2011年)と柳家小三治(1939年~)である。このふたりは人柄、芸風がまったく対照的であり、お互いにほとんど触れ合うことがなかった。私が読んだ談志の本には、小三治のことはまったく書かれていない。他方、小三治の方は談志にはすげない触れ方である。談志死去の際に求められて、NHKの電話インタビューに応えて、小三治は「あの人ははなし家としては最高に才覚を持っている人ですよ、・・・・議員なんかにならなきゃ良かったと思うけど。・・・・権力にあこがれていた人ですからね。そのために三遊協会分裂のもとを作ったのはあの人ですよ。・・・・結局は落語協会を飛び出して、立川流とかっていう、家元とかっていう名前を自分でつけたわけで」と語っている(NHK「かぶん」ブログ)。談志死後の小三治による一方的な発言ではあるが、両者の関係を伺わせるものである。
 また、ふたりの違いは、「小三治」という名前をめぐっても見えてくる。談志は真打になるときに、「柳家の出世名前である小三治(師匠も小三治から小さんになった)などもいいなと思ったが、人間がよくないてんで、くれそうもない。そこで前から考えていた立川談志、これがいいと思い、また欲しかったので、おそるおそる切りだすと、林家正蔵師匠が“じゃあ”てんで口を切ってくれ、意外にかんたんに立川談志がもらえた。」(立川談志『現代落語論』三一書房、1965年、161頁)。1963年に五代目立川談志が誕生した。これに対して、小三治の場合は、「あたくしは師匠の小さんから、何の相談もなくいきなり「おまえは小三治だ」って言われて、師匠が付けていた大事な名前をあたくしに、言ってみれば追っ付けられたわけですから、それを断るだけの勇気があたくしにはありませんでした」(柳家小三治『ま・く・ら』講談社文庫、1998年、395頁)。1969年に十代目柳家小三治が誕生した。師匠との関係、ふたりの人柄を伺わせる逸話である。
 師匠との関係では、ふたりの落語観の違いもおもしろい。広瀬和生によれば、小三治は「落語とは、高座の上の空間に、何気なく会話している人たちの姿が浮かぶものでなければいけない」と言う。これに対して、談志は「落語とは人間の業を肯定する芸能」であり「非常識を肯定する」という分析的な落語観をもっていた(広瀬和生『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』講談社、2014年8月、2頁、5頁)。
 小さんの落語について、談志はまだ入門前のころ、「若手中堅では、圧倒的に好きだったのが小三治、つまり今の小さん」で、「清潔で威勢がよくて、間が抜けたところもあって、第一うまかった」としていた(前出『現代落語論』83頁)。他方で、談志が「師匠、落語ってのは何なんですかね」と問うと、「お前な、それはなあ、八つァんや熊さんや隠居さんが出てくるんだよ。で、泥棒が出てきて、悪い奴はいないんだよ」との答えに、談志は「カーッ。どうにも、こうにも・・・・」。そして「論理がないから、ああいう落語になって、それがもてはやされた時代があった」と評していたのである(『談志が残した落語論』(dZERO発行、2014年4月、134頁、131頁)。談志は小さんの古典落語に対しては懐疑的であった。
 これに対して、小三治は、究極の理想像は「晩年の小さん」かとの問いに、「もちろん! あれが理想」と言い切っている(広瀬前出書、86頁)。師匠は「「お前の隠居さんと八っつぁんは、仲が良くねぇな」って言ったんですよ。もうホントにね、心臓が飛び出すような気持ちでしたね」。「その仲の良さを理解するのに、何十年もかかりました」と述懐している(同前、32頁)。

 つぎに弟子について取り上げる。まず談志から。「私が教えて上手くなったとして、その人間が果たして本当に嬉しいのだろうか。・・・・当人が考えた方向とは違うところへ行くのではないか」「基礎は教えられる。・・・・「教える」ことができるのは、そこまでだ」「普通は舞台と教える場合では喋り方が違ってくる。・・・・舞台と同じようには演らない。“自分で考える余地をお前に与えているんだ”ということだろうし、舞台の落語を“聴かなきゃいけないんだよ”ということでもあるのだろう」と記している(前出『談志が残した落語論』107-108頁、111頁)。また、談志は6人の前座全員を同時に破門したことがある。弟子たちは「怒っている理由も判らなければ、・・・・こっちの親切も判らないのか。洒落も込めているのに」(同前、119-121頁、127頁)、として破門にしたのである。談志は、基礎は教えられるがセンスはどうにもならない(同前、107頁)、といっている。洒落が判からないというのは、落語家としてのセンスがない、破門にした方が本人のためにもなろう、という親心とも理解できる。
 つぎに小三治の場合。「最初っから素質のない者はダメだ、ってことも言えなくもない。・・・・私は、ダメな奴は辞めさせました」と言っている(広瀬前出書、74頁)。談志と同じ考えといえる。その後、小三治は、「正直言って、初めのほうの弟子はとても厳しくて気の毒だったな」「あたしが思った通り以外のことは、これっぱかりも許さないという、言ってみればムチを持って叩きまくるような修業をさせておりました」。しかし「なかなか人を育てる、見るというのは難しいもので、つまり自分がこうあってほしいからとそっちへ追いやろうと思ってもダメなんですね」「こうならなくてはならないと思った途端に、その人は萎縮してしまうんだなってことが、やっとこの歳になって【注:55歳を過ぎてから】」見えてきた。それで、「遅ればせではあるけれども、好きなようにしていいんだよ」「自分で覚えていくものなんだな」となった。「昔の自分からしてみれば、とても根性のない人になってしまいました。でも、今とても気持ちが楽です。人はそれぞれの形でいいんだと、こう思います。ですから、自分のことも以前はもっと自分で責めていました。今は人を許せるとともに自分も許せるような気持ちです(笑)」(前出『ま・く・ら』398-402頁)

 落語の場合には、弟子はプロの噺家を目指しているわけであり、その修業の場は、あえて教育の場で例えてみれば、プロの研究者を養成する院生教育に当たるといえよう。落語の世界における弟子の養成の一端にふれてみて、経済学分野のある先生が「弟子をみれば、先生のいつの時期に育てられたかがよく分かる」と述懐されたことを思い出した。院生指導にはつぎのようなサイクルがあるというのである。先生の研究指導の初期には、一定の能力を持った院生を一人前の研究者に育てることを目標に、非常に厳しく指導した結果、ある分野の優れた研究者が巣立って行くが、反面こぼれ落ちていく院生もいる。中期には、自らの研究実績を踏まえて、院生の能力に応じた研究指導に心掛け、少数の秀でた研究者と普通の研究者を世に送りだす。後期には、温厚な先生として、穏やかに院生と接し、研究者としてのあるべき姿を語り、「自由放任」をよしとし、したがって凡庸な研究者が続出する。すなわち、教育者の実績と熱意及び院生の能力と努力が、生み出される研究者の質と程度に大きな影響を及ぼすというわけである。
 このサイクル論は、小三治の弟子指導にどこまで当てはまるかは分からないが、私個人の乏しい経験や見聞ではかなりの程度当てはまっているように思える。小三治は初期の非常に厳しい指導を「懺悔」しているが、私の初期も「懺悔」である。私の場合、院生指導に当たることができたのがかなり遅い時期であり、多少の焦りもあったかもしれないが、熱心に指導に努めたつもりであった。受け手の方は、「非常に厳しかった」と言っており、それまでの「仏の顔」が「鬼の面」に変じたと受け止めたかもしれない。その結果、院生たちは一人前の研究者として巣立つことができなかった。中期以降は、秀でているか、優れているかは、他者が評価することであるが、何人かの院生が一人前の研究者として巣立って行った。改めて、ひとり一人の院生の個性にあわせた研究指導の大切さを痛感している。
 以上、落語を意識した「大学教育と落語」論の一席を試みたが、出来具合は、聴き手=読者に委ねるほかはない。