1 関門地域金融の展開

迎 由理男

1 は じ め に

 かつて関門地域は「九州の金融中枢」といわれ、西日本一帯を管轄する日銀支店をはじめ都市銀行、政府系金融機関(特殊銀行)が集中し、コール取引をはじめ種々の金融取引が展開した。屈指の地方金融市場であった関門に今その面影はない。本稿は高度成長期頃までの関門地域(1)における金融機関の動向ならびに金融の発展と衰退過程を検討し、次章以降で詳述される現在の関門地域の金融的特徴がどのように形成されてきたのかを明らかにすることを目的としている。なお資料の都合上、主として分析が北九州の動向にとどまり、下関地域の動向についてはきわめて不十分であることをはじめにお断りしておきたい。

2 戦前期の関門地域金融

(1)1920年代の関門金融市場
1 関門金融市場
 関門地域に金融機関が集中し始めたのは明治30年代からであり、屈指の地方金融市場として大きな役割を果たすのは第1次大戦期以降であった。ここでは1920年代の最盛期の関門金融市場の構造を見よう。まず、第1次大戦期の関門所在銀行を掲げておくと第1表のようになる。ここに明らかなように財閥系銀行は三菱を除きすべて進出してきたし、特殊銀行、ビルブローカー、さらには都市の貯蓄銀行・三流銀行なども店を構えている。6大都市を別とすれば、財閥系銀行や政府系金融機関が進出した地方都市は関門だけである。三菱銀行について述べれば、同行は百十銀行の筆頭株主であり、百十銀行の頭取は同行出身者が就任していた。

 第1表 1926年の関門所在銀行一覧


銀行種別 門     司 下     関

中 央 銀 行 日本銀行
特 殊 銀 行 台湾 横浜正金、朝鮮
都 市 銀 行 三井、住友、安田、第一 住友、三井、十五、第一
地 方 銀 行 二十三、門司、京和 百十、舟城、萩野、京和、宇部
貯 蓄 銀 行 不動貯金、共栄貯金、大分貯蓄 不動貯金
ビルブローカー銀行 藤本

出典:大蔵省『銀行総覧』、『下関市史』1958年。

 関門地域にこのように各種銀行が集中してきたのは次のような要因を挙げることができよう。まず、何よりも日銀西部支店が大阪支店に次いで、当初下関、後門司に設置されたことである。明治期には財閥系都市銀行でさえ、日銀信用に大きく依存しなければならなかったし、本店からの資金の送金は日銀支店網を通じてなされたからである。
 第2に、後背地として筑豊炭鉱地帯をもち、門司(若松)が筑豊石炭の積出港であったことである。巨額の開鑿費を自己資金で賄い得る炭坑業者は皆無で、資金の多くを外部資金に依存したし、石炭商は一手販売権獲得のために資金供給を競い合った。明治期各金融機関は膨大な資金を石炭に供給した。
 第3に、下関と門司は、単に石炭輸送だけではなく、大陸(中国・朝鮮)−本州、九州−本州の物資輸送の結節点であった。有力商社をはじめ種々の貿易業者が関門とくに下関に支店を設置し、関門金融市場はこうした資金需要にも応える必要があった。
 第4に、官営八幡製鉄所の発展を背景とする洞海湾一帯の工業化(北九州工業地帯の生成)も重要な要因として挙げることができよう。第1次大戦期重化学工業を中心に北九州地域に積極的な設備投資がなされた。これら企業の資金需要も旺盛であった。とくに鈴木系の企業が関門地域に設立され、関門の最大の資金需要者になったのは後述する如くである。
 以上のような諸要因によって、関門金融市場が形成され成長していくが、関門では様々な資金需要があった。その太宗は石炭関係資金であり、次いで北九州工業地帯への資金供給である。さらに、肥料、砂糖、米穀、麦粉など関門南港の主要取扱商品への資金供給を挙げることが出来よう。「九州における全肥料の約八割が門司港を経由」(2)したし、九州米の多くは門司から本州へ積み出された。また、関門は京浜、阪神、名古屋とともに砂糖市場の中心の一つであり、仝取引高の13.1%を占めていた(3)。そして、小麦への貸出は肥料や砂糖を上回っていたのである。石炭関係資金は主として石炭取引に関わる資金供給であったから、関門の金融は商業金融が中心であったと考えていい。
 以下では1920年代の関門金融市場の構造をコール市場を中心に検討しよう。まず、関門所在銀行の預金・貸出の状況を見ると第2表のようになる。同表から明らかなように、藤本ビルブローカー銀行を別とすれば、都市銀行が預金、貸出とも圧倒的比重を占めており、著しい寡占的構造となっている。

第2表 関門所在主要銀行の貸付金推移 (単位:千円)

銀行名 1919年 1920年 1921年 1922年 1923年 1924年 1925年 1926年
三井銀行 12,033 8,277 7,368 17,345 9,256 7,700 9,146 7,185
住友銀行 14,772 8,957  11,900 9,600 7,381 6,632 6,345 6,822
第一銀行 12,370 6,886 8,041 6,660 6,677 6,827 9,287 10,269
藤本BB銀行 5,930 14,069 8,436 9,689 10,914 12,766 16,097 17,584
百十銀行 15,725 13,908 12,503 12,645 16,270 16,837 16,847 17,056
合 計 76,525 62,369 62,819 68,388 64,270 60,853 66,342 67,942

 出典:植田欣次「戦間期の地方金融市場と農工銀行『地方金融史研究』第15号、1984年3月、22ページ。
 備考:合計には、日本商業(後安田)、二十三、台湾、増田BB、浪速、横浜正金、朝鮮の各支店、出張所を含む。

 関門コール市場の市場圏と規模を見よう。関門市場には各地から資金が流入し、また各地に供給された。『門司新報』によれば、関門金融市場圏は大分、佐賀、長崎、福岡の北部九州と広島、山口、島根に及んでいる(4)
 コールローンの地域別残高によって、わが国の各地金融市場のおおよその市場規模を見ておくと、第3表のようになる。これによれば、1921年では東京、大阪を中心とする都市金融市場が圧倒的比重を占めているが、広島、山口、福岡は兵庫や愛知に雁行する規模に達し、発展する地方金融市場の波涛にたっている。1926年でみると、都市金融市場の比重が低下し、地方金融市場が発展する中で、広島、福岡、山口はコールローンでは、神東川、兵庫に匹敵し、コールマネーにおいては神奈川、兵庫、愛知をも凌駕する規模に達しているのである。関門は屈指の地方金融市場であったといえよう。

第3表 普通銀行の地域別コール残高(単位:千円、%)

 府 県
1921年末
1926年末
コールローン
コールローン
コールマネー
残 高
比 率
残 高
比 率
残 高
比 率
東 京 166,019 48 251,005 43 204,197 56
大 阪 82,202 24 139,084 24 35,338 10
神祭川 43,380 12 5,579 1 8,167 2
兵 庫 15,493 4 14,970 3 17,090 5
愛 知 7,415 2 39,421 7 8,690 2
小 計 314,509 90 450,060 77 273,481 74
広  島 13,531 4 10,292 2 19,081 5
福  岡 2,536 1 12,724 2 14,117 4
山  口 2,390 1 10,190 2 400 0
総 計 348,654 100 585,274 100 367,818 100

     出典:大蔵省銀行局『銀行局年報』により作成。
     備考:1921年分は「その他貸付金」の数値を計上。

 さて、関門所在銀行の中で、コールの出し手と取り手をみると、出し手としては地方銀行、農工銀行、朝鮮銀行などが挙げられる。取り手としては地方銀行、藤本BB銀行、都市三流銀行などが挙げられよう。
 第4表は判明する銀行の門司支店のコール取扱高である。百十銀行は本店分であるが、これで見ると、地方銀行と藤本BB銀行の取扱高が多くを占めているのがわかる。今それぞれの金融機関について、関門市場における役割をみよう。

第4表 銀行別コール取組高(単位:千円)

年度
台湾銀行(門司支店)
朝鮮銀行(下関支店)
百十銀行
藤本銀行門司支店
藤本銀行福岡支店
コールマネー コールローン コールマネー コールローン コールマネー コールローン コールマネー コールローン コールマネー コールローン
1919年下 9,015 2,040 825 20,444 不明 不明 148,272 11,141 - -
1920年下 860 0 3,045 10,840 不明 不明 93,774 5,266 - -
1921年下 770 0 450 7,610 不明 不明 101,223 14,575 - -
1922年下 0 0 1,645 5,215 1,760 82,154 113,481 9,702 - -
1923年下 0 0 1,550 3,905 475 21,880 173,360 13,950 - -
1924年下 - - - - 1,330 27,943 148,674 14,509 1,731 2,238
1925年下 - - 1,690 3,680 0 25,509 159,953 27,217 29,681 22,211
1926年下 - - - - 0 36,740 147,202 14,196 30,868 27,917
1927年下 - - - - 0 0 19,831 0 7,741 5,410
1928年下 - - - - 650 163 不明 不明 不明 不明
1929年下 - - - - 0 910 不明 不明 不明 不明

 出典:台湾銀行、朝鮮銀行は『銀行局年報』、百十銀行、藤本ビルブローカー銀行は『営業報告書』。

第5表 藤本ビルブローカー銀行門司支店の主要勘定(単位:千円)

年 度
預 金
借入金
コールマネー
再割引手形
貸 金
コールローン
割引手形
1918下 583 140 1,000 102 1,138 350 644
1919上 20 1,102 6,154 620 5,330 910 2,903
1919下 68 700 5,840 30 5,193 828 1,545
1920上 513 205 5,603 632 5,887 1,221 1,209
1920下 299 2,865 6,881 4,039 10,711 378 3,737
1921上 278 3,920 9,O84 783 9,687 910 2,978
1921下 82 5,170 6,999 100 9,387 2,450 1,498
1922上 149 3,222 5,881 789 8,642 2,960 1,649
1922下 128 4,905 5,373 430 8,736 1,397 2,209
1923上 88 3,088 6,907 0 8,449 1,874 1,632
1923下 94 2,646 7,394 546 8,878 2,945 2,084
1924上 104 2,912 9,254 597 9,726 3,565 3,239
1924下 83 3,794 7,577 1,496 9,487 3,444 3,332
1925上 193 5,619 8,304 3,457 12,482 5,485 5,655
1925下 60 5,600 8,950 1,007 12,783 2,386 3,366
1926上 47 6,045 9,232 1,367 12,977 2,547 3,914
1926下 46 5,386 10,675 1,299 14,090 2,506 3,521
1927上 26 4,851 5,490 22 8,673 222 1,586
1927下 22 6,955 0 22 5,788 0 91

  出典:藤本ビルブローカー銀行『営業報告書』。

 まず、藤本BB銀行門司支店。同支店は関門金融市場最大の資金供給者であり、コールの取り手であった。同支店の活動について、第5表を参照しながら、その資金調達と資金運用について見てみると、同行門司支店は資金調達を、借用金とくにコールマネーと再割引手形に依存していることがわかる。同支店のコール取り入れ高は本店、東京支店、神戸支店に次いで多く、コールマネーと資金供給の多さは注目に値する。では、藤本BB銀行の資金供給の内容はどのようなものであったのであろうか。三井銀行門司支店長は同行支店について次のように述べている。


 同行(藤本BB銀行一引用者)ノ残高ハ引続キ金融恐慌時代二至ル迄、常二組合銀行ノ第一位ヲ占メ一千万円台ヲ降ッタコトハナカッタ、但シ藤本ノ貸金ノ内容ハ各種会社ノ単名手形割引ノ外鈴木商店及ビ同関係会社ノ貸金等ヲ主トシ純良ナル商業手形トテハ少ナカッタ由デアリマス(5)

 ここから明らかなように、同行は関門地域としては多額の資金を鈴木商店や鈴木系の企業に貸し出していたのである。当時関門周辺には鈴木商店の支店をはじめ日本製粉や帝国麦酒が拠点を構えていた。
 次に地方銀行を見てみよう。地方銀行の資金需要は著しい季節性を帯びているため、その資金調節は、大戦期までは、緩慢期には関門の都市銀行などへ預け入れ、逼迫期には預け金を引き出しさらには都銀から借り入れるという、都銀との預託一被融通関係を発展させることによってなされていた。大戦期のコール市場の発展はこうした親子関係による資金需給の調節に加えて、コール市場による調節がなされたのではないかと考えられる。すなわち、地銀は関門市場では主たるコールの放出者であるとともに、取り手であった。多くの地方銀行の中で、主として関門市場でコールを供給していたのは、百十銀行、二十三銀行であったようだ。藤本BB銀行を介した資金需給について当時の『門司新報』は「旧正節季には相当短資が地方に移動した関門付近に於いて短資の供給地は山口県下て重に百十銀行が取扱居るも藤本ビルブローカー銀行門司支店の手に依り取扱ひ佐賀及び博多地方に供給したコールは百五十六十万円に達し尚他地方の取扱を加へる時は二百万円の多きに上って居る」(6)と述べている。
 都市銀行の役割を三井銀行門司支店の動向によって見てみよう。同支店はかつて預金・貸出で圧倒的に有利な立場にたっていたが、次第に預金・貸出とも縮小した。その要因は石炭金融が本社でなされていること、福岡支店や下関支店等の開業によって同支店の営業範囲が縮小したこともあるが、何よりも北九州地域の資金需要の停滞が大きく影響していた。今一つ、関門市場で預金・貸出が他の都市銀行に遅れをとっていることに現れているように、都銀間競争で不利にたったことも作用していた(7)。しかし、同支店の業務は安定したものであり、北九州の主要企業がその取引先であった。
 藤本BB銀行と同支店の関係をみよう。すでに述べたように、藤本BB銀行はコールを取り入れ、これを鈴木系企業を中心に積極的に貸し出していたが、コールとともにこの貸出を支えたのが都市銀行支店による藤本BB銀行依頼による手形再割引と担保付貸付金であった。都市銀行自身も鈴木商店系の企業に貸し出しており、1920年恐慌後から金融恐慌までの間「鈴木及其関係商店ノ関門取引銀行カラノ借入金ハー千万円ヲ下ッタコト」はなく、「門司組合銀行ノ貸金残高ガ最モ多カッタ時代ハ挨言スレバ藤本銀行ノ活躍時代デアリ又鈴木商店及其関係会社ノ借金時代デアツタ」(8)のである。
 以上から明らかなように三井支店をはじめとする関門都市銀行支店は、中央や九州の優良企業に対する大口取引の他、鈴木商店や関係会社へ直接貸し出しさらには、藤本依頼の鈴木関係手形の再割引、藤本BB銀行への貸付などを盛んに行ったのである。しかも、これら手形の割引や担保付手形貸付を三井銀行下関支店や門司支店は極めて積極的に行っており、しばしば「本部金繰ノ方針ニ反シ且通牒ヲ無視セル取扱」(9)であった。
 以上要するに、藤本は農工銀行を含む地方銀行からのコールマネーと都市銀行からの借入金や再割引手形によって調達した資金で、鈴木関係会社を中心として関門一帯に広く資金を投下したのであった。都市銀行はいわば藤本BB銀行にリスクを負担させつつ、鈴木への資金供給を行っていたのである。そして、地方銀行はコール市場の発展によって、預託一被融通関係、親子関係の形成とは異なった資金需給の調節機会を持ち得たのであった。
 しかし、1927年の金融恐慌はこうした状況を一変させた。金融恐慌後、各金融市場は長く収縮状況が続いた。今第6表によって関門の状況を見ると、預金・貸出ともに減少し、手形交扱高も大きく落ち込んでいる。ただし、預金と貸出では減少率が異なり、預金が微減に止まったのに対し貸出は下落幅が大きかった。恐慌時までは関門では貸出が預金を上回っていたが、恐慌後関門の各金融機関は多額の遊資を抱えるようになったのである。

第6表 金融恐慌後の関門、福岡金融市場の状況(単位:千円)

年 月
預  金
貸  出
手形交扱高
関 門 福 岡 関 門 福 岡 関 門 福 岡
1926年6月 61,008 70,470 66,025 56,517 68,204 31,598
1926年12月 62,045 68,292 67,942 57,615 69,882 38,252
1927年6月 57,892 64,979 49,210 47,693 38,894 26,836
1927年12月 57,637 66,729 40,095 41,223 46,981 25,965
1928年6月 68,174 72,804 37,870 50,361 44,606 26,637
1928年12月 69,165 70,688 47,771 53,265 46,981 27,047
1929年6月 70,068 75,511 49,682 56,890 41,290 22,043
1929年12月 68,227 69,301 47,884 53,552 49,928 25,205
1930年6月 66,700 69,080 49,496 55,522 38,344 23,276
1930年12月 69,112 71,151 45,078 50,233 38,151 25,660

      出典:日本銀行門司支店『金融報告』。

 コール市場は「金融恐慌以前二於テハ関門組合銀行ノ藤本BB銀行其他二対スルコール放出相当額二上ッテ居ッタ‥・ガ当地コール市場ハ其後今日(1929年10月一引用者)ニ到ルマデ引キ続キ閉塞」(10)したままであった。地方銀行などの遊資はコールではなく「一流銀行二通知預金トシテ流レ込」(11)んだり、定期預金とされたのである。関門で全体として組合銀行の預金がそれはど減らなかったのは、こうした地方銀行からのいわゆる同業者預金の激増もその一端をなしていた。
 その預金であるが、恐慌の前後で全体としてそれはど変動しなかったとはいっても、関門や福岡の組合銀行でさえ、金融機関によって状況は大きく違っていた。預金が増加したのは、関門では、三井、住友、第一、安田の財閥系銀行支店であって、大分合同銀行や藤本ブルブローカー銀行支店は1929年になっても恐慌時の水準を回復することができなかった。百十銀行も預金が回復するのは1928年上期であった。
 関門では貸出構造も激変した。恐慌前、最大の貸出高を誇ったのは藤本ビルブローカー銀行であった。藤本BB銀行は地方銀行などからのコールと財閥銀行支店の再割引によって資金を調達し、鈴木商店関係企業を中心に資金供給を行った。しかし、恐慌後藤本はコール資金を調達できなかったうえ、鈴木商店関係企業の多くは焦げ付いて資金回収できず、新規貸出ははとんどなしえなくなってしまった。金融恐慌によって「藤本BBと鈴木の時代」は終わったのである。

2. 関門地域の中小銀行の淘汰
 銀行本店のない政令指定都市は、東京と横浜に隣接する川崎を除けば北九州市だけであるが、こうした状況を生み出した要因は、以下の3点に求めることができよう。第1は、地元地方有力銀行の八十七銀行が明治30年代に経営破たんし、都市銀行に合併されていたことである。この点についてはすでに明らかにされている(12)。第2は都市銀行の集中が地方銀行の発展を阻害したことである。すでにみてきたように関門金融市場は藤本BB銀行を軸とし、都市銀行を中心とした市場であった。関門地域には都市銀行が集中し、預金・貸出はこうした都市銀行支店に集中した。北九州の若松、八幡、門司には、若松商業銀行、黒崎商業銀行、門司銀行が存在していたが、これら地域の優良顧客は都市銀行に取り込まれ、預貯金もまた都市銀行や東京から進出した3流銀行支店に奪われ、これら銀行は預金貸出とも停滞していくのである。唯一これらに対抗しえたのは毛利家などが出資する百十銀行であったが、同行でさえも三菱銀行と山口銀行(本店大阪、後の三和銀行)にバックアップされなければならなかった。第3は政府の銀行規制と地方銀行合同政策である。1927年に制定された銀行法は最低資本金額(東京大阪に店舗をもたず、人口1万人以上の町に本店をもつ銀行の場合100万円)を定め、各銀行は1932年までにこの基準を達成しなければならなくなった。福岡や山口の場合、過半の銀行が最低資本金に達しない無資格銀行であった。政府は単独増資を原則として認めなかったから、こうした無資格銀行は他行との合併を強いられることになるのである。1927年から32年までの間に北九州旧5市内地域では地元銀行は消滅し、山口では12行から6行に減少した。

3. 中小金融撥関の展開
 次に関門地域における1920年代の中小金融機関の動向を無尽業(後の相互銀行)と市街地信用組合(戦後の信用金庫)についてみよう。
(13)。
 福岡の無尽業の発展は全国的に見ても際だっていた。すなわち、第7表に示したように、1915年の大蔵省『無尽業二関スル調査』によれば、福岡県は無尽営業者数、会数、払込資本金、無尽契約高のいずれをとっても、兵庫などとともに東京に次ぐ地位を占めており、とりわけ契約高では全国の13%にも達していたのである。このように福岡県に無尽業が発展したのは、北九州や博多を中心とした都市の成長に伴う中小商工業の堆積にも関わらず、都市銀行の集中によって本来中小企業金融の一端を担うべき中小地方銀行がいち早く淘汰されたためであったといってよい。金融難を解決するために、地元商工業者によって黒崎商業銀行が設立されたり、地元商工業者を対象とする銀行の誘致(例えば波佐見銀行若松支店や戸畑出張所)がなされたりもしているが、彼等にとってより容易であったのは無尽会社の設立であったのである。

第7表 無尽会社の府県別の動向(1915年)(単位:千円、%)

順位
営業者数
対全国比
会 数 対全国比 払込資本金 対全国比 契約高 対全国比
1 東京 120 14 東京 2,443 17 東京 1,556 22 東京 25,217 18
2 兵庫 73 9 福岡 979 7 兵庫 821 12 福岡 17,638 13
3 埼玉 40 5 兵庫 861 6 福岡 518 7 兵庫 14,654 11
4 福岡 38 5 富山 788 5 静岡 254 4 長崎 6,165 4
5 三重 34 4 長崎 739 5 大分 334 5 富山 4,895 4
全国 831 100 全国 14,346 100 全国 6,497 100 全国 137,637 100

   出典:大蔵省『無尽二関スル調査』1915年。


 以上のように、無尽会社は小商工業者の金融機関として急速に発展し始めたけれども、無尽業法の制定施行でその数は激減した。無尽業法は無尽業の経営強化と加入者保護を図るために無尽業を免許制とし、厳しい法的規制のもとに置いたからである。福岡県でも同法施行後、免許を受けた無尽会社はわずか5社に減少した。しかし、その後順次増加し、1920年代には県内で12社を数えるに至り、その内の5社が北九州地域に設立されていた。1920年恐慌以降の1930年代半ばまでの北九州の無尽会社の業況を一瞥しておくと、給付契約高は順次増大し、1927年には1920年の二倍に、達している。無尽の掛金は掛金者に払い戻す義務がないので、無尽業は1927年の金融恐慌の影響を直接的にははとんど受けることもなかった。しかしこの時期、給付契約高は伸びるものの、未収無尽掛金が激増し、その処理のために積立金を取り崩さなければならないという、経営的には厳しい状況が続いている(第8表参照)。無尽契約者の50%が商業に従事する人々であり、無尽業が営業基盤としているこれら業者の経営が、長年の慢性的不況によって著しく悪化していたことが原因であった。

第8表 福岡県の無尽会社の状況(単位:千円、千口)


事 項 1920年 1927年 1932年

会 社 数
9
11 12
資 本 金 525 835 1,350
口   数 41 41 66
給付契約高 22,349 44,327 67,302
積 立 金 395 209 453
未収無尽掛金 579 1,517 549

 出典:大蔵省銀行局『銀行局年報』。

 中小商工業金融問題に対処する金融機関として今ひとつ期待されたのが市街地信用組合であった。市街地信用組合というのは、一般の信用組合には認められていない手形割引と員外貯金の取り扱いを認められた市街地の信用組合のことである。
 北九州と下関の市街地信用組合の動向を見てみよう。福岡では1928年には16組合が活動していたが、この内、10組合が北九州5市に設立されている。この間組合員数、出資金額は急増し、1931年に組合員1万5千人、出資金430万円に達した(第9表参照)。組合員には当然ながら商人が多く、資金需要も活発で貸出金は貯金額を上回っていた。農村信用組合に比べ一組合当たりの事業規模も格段に大きかった。一方、下関には下関信用組合が設立され、着実に発展していた。

第9表 福岡県における市街地信用組合の状況(単位:千円)


組合数 組合員数 出資金 借入金 貸 出 貯 金

1923年
5
1,873 1,130 153 583 393
1927年 12 9,408 3,273 228 3,799 3,679
1931年 6 15,312 4,332 731 7,514 6,747

出典:大蔵省銀行局『銀行局年報』。

(2)戦時期の構造
1. 関門金融圏の縮小
 戦時期になると関門地域の金融は大きく変貌した。すなわち、まず西日本における金融の中心が福岡に移り、九州地域における関門の地位が著しく低落したのである。その要因の一つは日銀さらには政府系金融機関などが福岡に集中しはじめた点に求められる。すなわち1941年に日銀福岡支店が設置され、日銀門司支店の管轄範囲は遠賀川以東の福岡県、山口県、大分県に縮小した。また戦時金融の中枢金融機関となった日本興業銀行福岡支店が1932年に福岡に設置され、戦時期になると積極的に炭鉱金融を展開していった(14)。この他厚生金庫、商工中金、庶民金庫、恩給金庫が福岡に支所を設置し、従来門司に支所を設けていた産組中央金庫も1942年には支所を福岡に移した。これらの支店、支所が福岡に設置されたのは、県レベルの種々の統制会が行政の中心地である福岡に設置されており、戦時金融統制がこれら統制会を通じてなされていたからであろう。第2の要因は、政府系金融機関の福岡集中に対応して、都市銀行支店や各種金融機関が福岡に拠点を構えたからである。都市銀行支店を見ると、5大銀行はもちろん、野村、十五の両行が進出していたし、信託会社も住友、安田、三和、三菱、三井が支店を設置した。証券会社も野村、川島、山一、藤本ビルブローカー、小池が支店を設けた。第3の要因は、後述するように地方銀行合同や無尽会社統合の進展によって、福岡県内の金融機関の本店が福岡市に集中してきたことがあげられる。地方銀行で言えば福岡に本店を置く十七銀行を中心に統合が進み、資金が福岡に集中していくことになった。同行は鞍手、北豊、植田合同など関門周辺の地方銀行を吸収する一方、北九州やその周囲に支店網を拡大していったのである。
 ただ、山口県では百十銀行への統合の進展によって、下関に本店を置く同行の資金量は増加しており、関門地域と福岡地域ではそれはど差が大きくならなかったことも付け加えておかなければならない。
 今一つの変化は、関門の金融が商業金融から工業金融へ変貌を遂げたことである。既に述べたように、従来関門では商業金融の比重が高かった。しかし、戦時経済の進展とともに下関や北九州工業地帯の諸工業も急膨張し、重化学工業への活発な資金供給がなされた。一方で商業資金供給は抑制された。今、百十銀行の業種別貸出高の推移を見ると、1937年には総貸出額に占める商業、工業の比率はそれぞれ38%、18%となっており、商業への貸出が多かったが、1942年になると商業の比率は29%に減少し、工業のそれは27%の増大したのである。また、小倉における支店銀行の状況を見ると、1937年に工業(鉄工機械化学工業)20%、石炭9%、商業23%であったのに対し、1942年上半期には工業46%、石炭14%、商業12%となっており、鉱工業への融資が60%を占めるに至った(15)。全体として工業金融の比重が飛躍的に高まってきたことが確認し得よう。

2. 金融機関統合と北九州・下関
 戦時期の金融機関統合の過程を見ておこう。まず、地方銀行の合同過程を概観する。 福岡県では、1935年には本店銀行が29行存在していたが、1941年大蔵省、日銀、県当局の勧奨によって、県南部で18行が合併して筑邦銀行(資本金750万円、本店久留米、頭取山崎貞吉)が設立された。一方県北部では、十七銀行(1020万円、本店福岡、頭取井尻芳郎)を中心に中小銀行の合併が進められ、1941年に博多銀行、1942年に北豊銀行、椎田合同銀行、鞍手銀行が同行に買収された。また県内に3行あった貯蓄銀行(嘉穂貯蓄銀行、筑豊貯蓄銀行、三池貯蓄銀行)も大蔵省の指導で合併し、福岡貯蓄銀行(資本金160万円、本店福岡、頭取伊藤伝右衛門)を設立した。
 以上の銀行合同の結果、福岡では1942年には筑邦銀行、十七銀行、福岡貯蓄銀行の他、筑邦銀行合併に加わらなかった三池銀行(120万円、本店大牟田、頭取永江眞郷)、武石銀行(資本金50万円、本店二日市町、頭取武石政右衛門)、筑豊に強固な基盤を築いていた嘉穂銀行(資本金200万円、本店飯塚、頭取伊藤伝右衛門)の6行となった。以後、大蔵省、日銀は一県一行の方針のもとに、強力な合併勧奨を行ったが、その実現は難航した。個人銀行的色彩の強い小銀行の武石銀行、三井銀行に合併された三池銀行(16)を除く4行の利害が村立したからである。その原因は県内本店銀行中庄倒的な地位にある十七銀行が安田財閥系の銀行である点にあった。筑邦銀行と福岡貯蓄、とくに筑邦銀行は安田財閥傘下にある十七を中心とする合同には強固に反対し、安田系からの十七銀行の離脱を条件とする合併か、十七を除く3行合併を主張した。これに対し、嘉穂銀行は十七銀行と「殆ンド許嫁ノ関係」にあり、十七と嘉穂との2行合併を大蔵省に上申した。同行の頭取・伊藤伝右衛門は十七銀行の取締役でもあって、同行の資金調節を十七に依存するようになっていたからである。大蔵省は、「財閥的色彩ヲ脱却スルノ方向二進マシムル」(17)という合同方針をとっており、地方銀行については、大銀行への合同を促進することなく、その存続を前提として、整理、育成、強化を図ることを目標としていた(18)。同省は、こうした方針と地元の要望を容れ、地元側から頭取を出し、合併は十七銀行による吸収合併ではなく新立銀行とし、安田財閥から切り離す方策を立案し、安田側と交渉した。しかし、安田は「頭取ハ安田系クルベキコト、並二合併形式ハ吸収合併ノ合理的ナルコトヲ主張」し「大蔵省提案ヲ拒否」(19)した。結局、調停に苦慮した大蔵省は強権を背景に最後通牒ともいうべき「大蔵省最後案」を各行に提示した。1.新立銀行は地元銀行として育成し、会長は筑邦銀行の推す永江眞郷(ただし、代表権なし)、頭取は井尻芳郎(安田保善社派遣、十七銀行頭取)とすること、2.安田は資本参加にとどめ、合併増資の際は地方に株式を分散させること、3.安田出身の新銀行役員は安田との関係を絶つこと、などがその骨子であった。筑邦、福岡貯蓄銀行の要求に沿って十七銀行の安田色を出来るだけ薄める、というのがこの案の特徴と言えよう。安田財閥は地元の出す会長に代表権を与えず、実質的な影響力を維持し得ることで妥協せざるを得なかったのである。1945年3月、同省案をもとに4行によって福岡銀行が設立された。
 山口県では1941年段階で6行が存在し、百十銀行(資本金715万円、本店下関、頭取佐膝好文)が規模の点で他の銀行を圧していた。大蔵省は同行を中心に銀行統合を実現することとしたが、合同にあたって問題が2点あった。一つは百十銀行が三菱銀行の系列銀行であり、華浦銀行(資本金200万円、本店防府、頭取山本庸彦)が三和銀行系であった点である。三和銀行は百十銀行の第2位の大株主でもあった。大蔵省は前述のごとく財閥系銀行を地方銀行支配から排除して行く方針をとっていたが、同県については三菱、三和の地方銀行支配をそのまま認める方針をとった。しかし、三菱は関東一円に強力な基盤をもつ都市銀行の第百銀行を吸収して、他の5大銀行に対し優位に立っていたから、遠隔の地方銀行経営については消極的で、百十の所有株式を三和銀行に譲渡した。一方5大銀行の中では資金量などの点で厳しい立場に置かれていた三和銀行は地方銀行支配に積極的であり、従来の所有株を合わせ総株式の42.8%を手中にし、百十銀行を支配下に置いたのである(20)
 今一つは百十に次ぐ規模であった長周銀行(資本金130万円、本店下松、頭取井上隆一)が巨額の不良債権を抱えていたことである。大蔵省検査の結果、同行の純欠損額(欠損額−株主勘定)は300万円と査定され、大蔵省、日銀は新立銀行が三和銀行の子銀行として構想されていることから同行にその全額負担を求めた。しかし、同行は日銀にも応分の負担を求め、結局三和が200万円、日銀が100万円の欠損補填をなすことに落ち着き、補填処理を行った後長周銀行は百十銀行に合併された(21)。残る5行は1944年1月に合併し、山口銀行(資本金1345万1千円、本店下関)を新立 した。
 一県一行を実現した山口銀行の業務を見ると、預金は国を挙げて展開された貯蓄奨励運動によって激増した。資金運用は有価証券運用が中心で、1945年上期には有価証券が全運用資産の74%をも占めていた。貸出では県内の指定軍需会社である小野田セメント、宇部興産、宇部曹達工業、三菱化成、林兼重工業、日本発動機油などへの軍需融資を行ったものの、興銀や都市銀行を補完する協力融資にとどまった(22)。この他地方統制会社や配給会社などに短期資金を供給したが、ごくわずかな金額にすぎなかった。
 次に無尽統合について見てみよう。福岡では、一県一社を目指した統合は北九州地域の合同から始まった。すなわち、1943年2月当局の方針に順応して、北九州地域の門司金融無尽、若松信用無尽、湧金無尽、北九州無尽の4社が合併して西日本無尽(資本金100万円、本店小倉)を設立し、さらに同年末には戸畑無尽が同社に買収された。筑豊地域では同年4月に博済無尽(本店飯塚)と共福無尽(本店直方)が合併して九州無尽(資本金100万円、本店福岡)を設立し、同年末に博多無尽を買収した。筑後地区では共立無尽、南筑無尽、三池無尽の3社が鼎立した。
 これら5社が合併し、西日本無尽(本店福岡)を設立するが、その主導権を握ったのは都市銀行の野村銀行(現大和銀行、本店大阪)であった。同行はかねてから無尽業界への進出を企てており、九州を一ブロックとする統合計画を立て、大蔵省と交渉、その了解を得たのである。同行の説得と時局の要請に各社とも順次合同に賛同した。しかし、四島一二三が率いる福岡無尽(現福岡シティ銀行)はこれに応じず、独立路線を選択した。四島には、福岡無尽は規模ではともかく経営内容では全国一だ、という強烈な自負があったといわれる。1944年12月、5社と野村銀行によって設立された西日本無尽(本店福岡、資本金310万円)は総株数の58%を野村が所有し、役員も会長に元同行頭取の松島準吉、社長に同行前福岡支店長の東令三郎が就任するなど野村銀行関係者で占められた。
 山口県でも宝栄無尽(本店下関)、下関無尽(同)、徳山無尽共益(徳山)の3社が1944年2月、合併して山口無尽(資本金50万円、本店下関)を設立した。
 戦時下の無尽業の業況を一瞥しておくと、1930年代後半軍需景気とともに給付金契約高は順調に伸びたが、経済統制の進展とともに困難な状況に陥った。無尽の最大の顧客である多くの中小商工業者が統合整備されたり、流通組織の編成替、配給制などによって商業活動が抑制され、無尽加入者は減少し給付は減退したからである。無尽会社は1944年から貯蓄無尽や割り増し無尽(事実上の定期預金)の取り扱いが認められて貯蓄機関化し、資金運用も余裕金の貸出を認められたものの貸出先は限定されていて、専ら国債消化に向けられることになった。
 市街地信用組合も戦時経済の進展に対応して一地域一組合に統合された。北九州では旧5市それぞれに二組合以上あったから、各市ごとに統合され、八幡庶民信用組合、若松信用組合、戸畑信用組合、小倉市信用組合、門司信用組合の5組合に再編成された。このうち八幡庶民信用組合は合併によって全国三位の規模となっている。下関では1943年に彦島信用組合と長府信用組合が市街地信用組合となり、下関信用組合と合わせ3組合となった。これら市街地信用組合も無尽会社と同様、戦時期には預金吸収機関化、国債消化機関化し、組合員数や貸付金は停滞した。
 以上のような金融機関の統合と統制経済が関門の金融的地位を相対的に低下させる要因になったことはすでに指摘した。関門の金融は従来商業金融が高い比重を占めていたにも関わらず、戦時統制によって商業活動は停滞したし、北九州市内で吸収された資金の多くは福岡に集中されたからである。北九州に指定軍需会社やその下請工場が集中しており、これら企業に村する融資や筑豊の石炭業への融資は増大したものの、それらの供給は過半が興銀福岡支店や都市銀行の福岡支店からなされたのである(23)。下関側では百十(山口)銀行の資金量は増大したが、重化学工業が少なく中枢地として問屋を中心とする商業都市であった下関での資金運用は減少したし、山口県東部の徳山、小野田、宇部などでの資金需要は主として興銀や都銀の広島支店からなされた。

3. 都市銀行支店の増大と業務
 関門地域の相対的地位は低下したとはいっても、軍需関連工業が集積する北九州は都市銀行にとって重要な拠点であることに違いはなかった。この時期、都市銀行の支店はさらに数を増した。では都市銀行支店はどのような業務を行っていたであろうか。安田銀行八幡支店の業況を見てみよう。同行八幡支店は1932年で預金が8,067千円であり、安田銀行の全支店中第5位を占めていた。一方、貸金はわずか1,451千円しかなく、預貸率18%という典型的な預金吸収店であった。戦時統制下、八幡には同行支店が2店、十七銀行が3支店、安田貯蓄銀行、住友銀行、帝国銀行が各1支店存在していた。金融機関別の預金貸出金を見れば第10表のごとくである。同表によれば、預金では安田銀行支店が圧倒的に多いが、貸出は十七銀行支店よりも少なく、預貸率が11%にすぎないことが窺

第10表 戦時期の八幡における預金・貸出金(1943年上期)(単位:千円、%)

銀行名 支店数 出張所数 行員数 預 金 同比率 貸出金 同比率 預貸率
安田銀行 2   74 46,945 54 5,132 39 11
十七銀行 3   56 16,177 18 7,471 57 46
安田貯蓄 1 1 40 15,167 17 429 3 3
住友銀行 1 1 20 6,542 7 - - -
帝国銀行 1 1 14 2,864 3 - - -
小  計 6 3 204 87,695 100 13,030 100 15
八幡庶民金庫     210 29,030   8,610   30

  出典:安田銀行八幡支店『八幡支店業況報告』。
 
 
えよう。十七、安田貯蓄は同行の関係銀行であったから、八幡では安田系支店で銀行預金の90%を占め、圧倒的優位にたっていたわけである。安田銀行支店の預金が他を圧していたのは、同支店が八幡製鉄所との一行取引を行い、八幡市金庫を独占していたからである。この点について同支店の報告書は次のように述べている。「昨年三月、住友、帝国ノ進出アリタルモ当店ノ生命線タル日鉄並二市金庫ノ当店一行取引二聊ノ変化ナク、尚一層ノ緊密ヲ計り両者ノ一行取引絶対確保並深化・・・・・・」(24)
 こうした同行の八幡製鉄所取引独占に対して、帝国、住友、三菱などは激しい割り込み運動を展開した(25)。結局、運動が功を奏して、1944年には預金取引先として三菱戸畑支店と帝国八幡支店が加えられたが、同支店は従来の関係から引き続き預金の大部分を確保している。
 同支店の業務の重点は日鉄、市金庫の一行取引の確保だけではなかった。同支店は1944年上期の業務方針として、上記の他、企業整備や疎開に関する特殊預金の獲得、軍需会社取引の獲得、八幡庶民信用金庫取引の深化工作、繊維製品及び食料品関係の一貫的取引の獲得などをあげている。軍需会社取引の獲得について言えば、第二次ないし第三次軍需会社指定見込の黒崎窯業、安川電機、日鉄港運をその対象としていた。食料関係の取引で重視したのは統制組合の八幡食料品配給統制組合であった。八幡庶民信用金庫は、前掲第10表に示したように、預金では同行支店に次ぐ地位を占め、貸出も他行に比べ多かったが、預貸率は極めて低かった。同金庫の余裕金獲得を狙って、各行は猛烈な勧誘を行っていたのである。
 軍需関連企業が殷賑を極める一方で、旧来の中小商工業は衰退する一方であった。その様子は「企業整備及疎開ニヨリ商店街ハ全ク様相変リ殊二当店所在付近ハ甚ダシク従テ今後中小商工業者ノ取引ハ衰退ヲ免カレザル状態トナレリ」(26)と述べられている。
 日鉄や三菱化成などの時局関係工場の集積する八幡で資金需要がなかったわけではない。例えば日本製鉄は軍需会社の指定を受け、指定金融機関として興業銀行と安田銀行、帝国銀行、三菱銀行が指定金融機関となっている。ただし、安田以下の3行は乙種で、地方工場の当座資金のみの取り扱いであった。興銀は日本製鉄に総額2億8850万円の軍需融資を行っているが、こうした取引は本社・本店間の取引であって支店にははとんど関わりがなかった(27)。各都市銀行の場合も基本的には同様であったと考えていい。
 要するに、戦時期北九州地域は重工業地帯として活況を呈したが、都市銀行支店は主として工場の当座資金を取り扱うに過ぎず、基本的には預金吸収が最大の業務であったのである。

3 戦後の関門地域金融
(1)復興期における関門地域の金融
 戦後復興期の関門地域の金融動向を見よう。戦後の経済復興にあたって、政府は石炭業と鉄鋼業に重点的に資金、資材、労働力を投入する傾斜生産方式を採用し、資金供給機関として復興金融公庫(復金)を設立した。復金が石炭中心に傾斜融資を行ったことはよく知られている。この時期復金が傾斜融資を行うと同時に、石炭業、鉄鋼業、肥料工業に所用資金を優先的に確保するために、民間の銀行に対しても大蔵省、日銀よる融資規制が実施された。こうした復金融資や融資規制は八幡製鉄所あるいは筑豊や宇部などの炭鉱を近辺に抱える関門地域に大きな影響を与えた。
 復金融資は1947年には全国銀行貸出の3分の1の規模に達していたが、これを地域的に見ると、1948年末では総融資額の12%、132億円が福岡支店から融資された(第11表)。総額の38%が石炭業への融資であったことから窺えるように、福岡支店からの融資の大部分が筑豊を中心とする石炭業に対するものであったと考えられる。宇部など山口県の炭鉱に対しては本店以外からは広島支店から融資された。今、北九州・山口に関係する大口融資先を挙げておけば、第12表になる。大口融資先に北九州・山口関連の企業がかなり存在していることがここから窺えよう。こうした復金融資によって、筑豊や宇部はもちろん北九州、下関は他地域に比べ潤うことになった。散布された資金の吸収によって地元の福岡銀行は預金獲得で優位にたち、1947年には地方銀行のトップにたったし、各種の金融機関が北九州に進出することになったのである

第11表 復興金融金庫地方別融資残高推移表(単位:100万円)

地域別 1946年末 同比率 1947年末 同比率  1948年末 同比率
東 京 2,422 71 33,459 76 78,022 70
大 阪 194 6 2,432 6 5,532 5
神 戸 64 2 537 1 1,743 2
名古屋 101 3 797 2 2,535 2
福 岡 437 13 4,336 10 13,249 12
広 島 74 2 1,096 2 3,674 3
その他 132 4 1,553 4 6,395 6
合計 3,424 100 44,210 100 111,150 100

         出典:復興金融金庫「復興融資に関する参考資料」1949年。

第12表 復金の北九州・山口関連大口融資(単位:100万円)


企 業 名 金  額 融資順位

三 井 鉱 山 7,227 2
三 菱 鉱 業 5,394 3
井 華 鉱 業 2,115 6
明 治 鉱 業 1,397 9
宇 部 興 産 1,081 10
古 河 鉱 業 982 13
月 島 炭 鉱 849 18
日 本 製 鉄 752 19
日 鉄 鉱 業 40 23
日 本 炭 鉱 618 25
大 洋 漁 業 215 28
麻 生 炭 鉱 402 42
西日本坑木 362 43
九 州 採 炭 244 59
大 正 鉱 業 210 63
嘉 穂 鉱 業 195 75
北九州石炭 157 84
共同石炭鉱業 141 91
日 満 鉱 業 106 105

出典:復興金融金庫『復金融資の回顧』1950年。
備考:1億円以上融資先の筑豊、北九州、山口に工場ないし炭坑をもつ企業を抽出。

 活発な復金融資に対し、民間金融機関は戦時補償打ち切りと激しいインフレによって大きな打撃を受けたが、再建整備前後しだいに新円ブームに沸く農漁村の預金吸収などによって預金が増加し、貸出も石炭、鉄、肥料を中心に伸長した。山口銀行の場合、これら優先順位の高い鉱工業に加えて下関を拠点とする水産業への融資が大きく伸びている(28)。福岡銀行については定かではないが、石炭融資がきわめて多かったといわれている。
 関門地域では以上のように、石炭業や鉄鋼業などの優先順位の高い大企業には資金が供給されたが、一般の中小企業は厳しい資金難をかこつことになった。とりわけ都市銀行の比重の高い北九州地域ではそれが深刻であった。その一端を1947年の小倉所在銀行の状況によってみておくと、小倉には当時11の銀行支店が存在し、地方銀行支店は福岡銀行の2支店だけであった。11行の預金総額8億9633万円に対し貸出は4億6468万円、預貸率は52%に過ぎなかった。しかもこのうち、福岡銀行による預金・貸出がそれぞれ1億3527万円、1億2601万円(預貸率93%)で、同行支店を除く預貸率はわずか44%だったのである。
 中小企業に資金を供給したのは市街地信用組合や無尽会社であった。西日本無尽と小倉無尽、小倉市信用組合の貸出高は、金融機関貸出高の14%を占めたのである。
 しかし、市街地信用組合や無尽会社は預金・貸出業務で様々な制約があり、その役割も限られたものであった。これら金融機関が中小企業の金融機関としてさらに大さな役割を果たすのは信用金庫や相互銀行に改組されて以降であった。
 中小企業の金融難という事情につけ込んで、この時期跳梁したのは閣金融である。いわゆる殖産会社金融もその一つであった。その特色は契約者が随時に加入し、日掛けで樹け金を支払い、一定の掛け込みをすれば任意の時期に給付が受けられるというもので、一定掛け込めば簡単に融資が受けられるので、殖産会社は急増した。とりわけ多かったのは福岡県で、1948年には同県だけで84社に達している。この殖産会社は小倉の商店主が始めた日掛け掛け込み・貸付金割賦返済を目的とする非営利金融組織を1929年に企業化したのが始まりであったらしい。
 政府はこの殖産金融を無尽とみなし、見做(みなす)無尽として法制化した。殖産会社は無尽業法によって免許を受けるか貸金業者になるかの選択を迫られたが、無尽会社として存続しうる基準は厳しいもので、免許を与えられたのは全国でわずか16社で、その内3社が福岡の無尽会社であった。福岡市の第一殖産無尽(資本金1500万円)、小倉市の西部殖産無尽(同1500万円)、久留米市の日信殖産無尽(同1500万円)がそれである。第一殖産と西部殖産は1951年6月合併し、山脇正次(前福岡商工会議所会頭)や奥村茂敏(福岡市長)、出光弘(新出光社長)らを会長あるいは顧問として迎えて体制を強化し、正金殖産無尽(資本金3000万円、翌52年正金相互銀行に転換、現福岡中央銀行)として新発足している。
(2)1950年代の関門地域の金融
 傾斜生産方式の採用やドッジラインの実施によって生産が軌道に乗るとともに、資金需要は徐々に増大していった。再建整備を終えた各種金融機関は、供給能力を増大させるために激しい競争を演じながら貯蓄増強運動を展開していった。戦前にはそれほど支店数を持たなかった都市銀行も、巨大な設備資金を要する重化学工業化の進展、地方銀行や中小金融機関の充実などによる競争の激化などに促されて、積極的な店舗拡張政策を取りはじめた。
 八幡製鉄所など重工業の生産の増大とともに次第に復興していた北九州でも、新たな金融機関の進出が見られた。ここでは、合併・商号変更による既設金融機関の動向も含めて、北九州と下関における金融機関の設置状況を見てみよう。
 まず日銀門司支店について触れておこう。同支店の管轄は1941年に福岡支店が設置されて以降、遠賀川以東の福岡県と山口県、大分県とされていたが、戦後各県に支店が設置されるにしたがって、さらにその管轄は縮小し、同支店は事務所に格下げされた。すなわち、1947年12月には山口県を管轄する下関支店、翌年2月には大分県を管轄する大分支店が設置されるとともに、門司支店は門司事務所に格下げされたのである。かつて尾道以西の中国地方と九州に君隠した門司支店の事務所への格下げは、金融上における門司の凋落を象徴的に表していたといってよい。
 北九州の銀行支店の設置状況を第13表によりながら見よう。1953年現在で北九州地域の銀行店舗数は51に達している。ほとんどが戦前から北九州へ進出していた金融機関が支店を増設したものであるが、十八銀行と佐賀興業銀行は戦後新たに進出してさた銀行である。都市銀行と地方銀行に分けてみると、戦前同様都市銀行の店舗が過半を占めているけれども、地方銀行支店も福岡銀行や大分銀行を中心に大幅に充実した。相互銀行や信用金庫の支店もとみに拡充した。相互銀行は20数支店が北九州一円に設置され、信用金庫は35店舗に達したのである。

第13表 北九州・下関における銀行数(1953年)


銀行名 北九州 下 関

都市銀行 28 8
地方銀行 23 9
福岡銀行 13 1
山口銀行 2 8
合 計 51

17
出典:門司市『関門経済史』第2輯、『下関市史』。
備考:山口銀行は本店を含む

第14表 1951年の地域別預金・貸出・手形交換高(単位:億円)


地 域 預 金 貸 出 手形交換高

北九州 310 237 2,576
下 関 301 216 654
福 岡 724 690 4,017

出典:日本銀行『日本金融史資料昭和続編』第18巻、739ページ、九州経済調査会『九州経済統計年報』
備考:預金・貸出は日銀福岡、門司、下関支店管内の預金、貸出。

 一方、下関では8都市銀行支店に対し地方銀行が9店舗展開していた。相互銀行は山口相互銀行の本支店の他西日本、福岡、広島の各相互銀行支店が支店を設けており、信用金庫は下関信用金庫の本支店があった。
 以上の金融機関によって展開された高度成長期直前の北九州、下関における金融の特徴を見てみよう。まず、手形交換高を見ておくと、福岡に比べ北九州、下関はかなり少ない。銀行の預金・貸出高では、北九州は日本屈指の工業地帯でありながら預金で福岡の約40%、貸出でその三分の一を占めるに過ぎず、預金・貸出とも著しく少ない(第14表)。一方、下関(山口県)は北九州と経済規模が違うにもかかわらず、預金・貸出ではほぼ北九州に匹敵する規模となっている。これは一つには九州における取引とその決済が福岡に集中していることを示しているといっていい。今一つには、北九州の企業や商社がほとんど東京・大阪の大企業の支店や支社、工場であることと関連している。というのは、こうした大企業の金融は基本的には本社のある東京や大阪でなされ、そのごく一部が北九州でなされるに過ぎないからである。北九州の都市銀行支店はこうした巨大企業の本支店間の送金業務が大きな比重を占め、為替送金取扱機関化するのであり、銀行預金の多寡もこれら工場群への送金の多寡に左右されるところが大きいのである。
 若松の大手炭鉱の資金繰りを例にとって、この点をもう少し具体的にうかがっておう。第15表によれば、この大手炭鉱若松支店の販売高は3億2137万円であるが、このうち若松で回収されるのはその58%の1億8481万円に過ぎない。しかも、回収された代金のうち支店経費と諸掛りを差し引いた1億1643万円(回収代金の63%)が本社に送金されるから、若松支店に残留する資金は販売高のわずか21%の6838万円に過ぎなくなるのである。「回収した炭代の一切を本社に送金して、経費・諸掛を逆に送金してもらうというのが通常の姿である」(29)といわれているから、実際に若松に還流する資金の比率はもっと少なかったであろう。

第15表 大手炭鉱の資金繰り(1954年1月)

1月中銀行割引残高 1月中送炭量、販売高、回収高 1月中支払
銀 行 別 金 額 項  目 金 額 項  目 金  額
三井銀行(若松) 64,941千円 1月中九州送炭量 117,855トン 諸   掛 60,140千円
住友銀行(若松) 38,016 若松支店販売数量 68,136 貨車運賃 33,000
富士銀行(若松) 16,362 若松支店販売高 321,375千円 舟運賃・諸掛 27,140
大分銀行(戸畑) 10,300 若松支店回収高 184,818 経   費 4,178
大和銀行(小倉) 16,571 現   金 108,114 本社送金 116,437
合  計 146,190 手   形 76,704 現   金 67,000
  手    形 49,437

   出典:『若松市史』第2集、1959年、802ページ。

 今一つの事例として、八幡製鉄所の借入金の動向を見ておこう。戦後復興過程における生産の再開、設備の補修や1951年以降の設備合理化において、八幡製鉄は膨大な資金を必要とし、主として借入金に依存した。その借入先を示したのが第16表である。これによれば、八幡製鉄所は設備資金については復金融資や対日見返り資金、日本興業銀行、日本開発銀行などの国家的金融機関に依存していることがわかる。短期借入金については、富士銀行、三菱銀行を中心とする都市銀行に依存する一方で、地方銀行からも借り入れている。とくに1953年の金融逼迫期には27行もの地方銀行から借り入れ、その額は借入総額の24%にも達している。しかし、合理化投資の一段落による資金需要の減退や鉄鋼ブームによって資金繰りが好転すると、金利負担の軽減、さらには事務の効率化のために取引銀行の整理が行われ、地方銀行のからの借入金はいっせいに全額返済された。

第16表 八幡製鉄所の資金借入先(単位:100万円、%)

金融機関別 1950年度末 1953年度末 1955年度末
金額 比率 金額 比率 金額 比率
(設備資金)  
 対日見返資金 582 29 231 3 39 0
 復興金融公庫 322 16 92 1 -  
 日本開発銀行 - - 3,410 42 1,950 18
 日本興業銀行 758 38 1,437 18 4,680 44
 日本長期信用銀行 - - 1,398 17 2,150 20
 信 託 銀 行 - - 574 7 536 5
 八 幡 市 - - 77 1 147 1
 そ の 他 351 17 963 12 1,254 12
 合  計 2,013 100 8,182 100 10,756 100
(運転資金)  
 日本興業銀行 105 4 540 4 415 5
 都 市 銀 行 2,090 81 7,045 52 5,990 79
  富 士 銀 行 425 16 1,180 9 980 13
  三 菱 銀 行  380 15 1,085 8 920 12
 信 託 銀 行 130 5 1,782 13 477 6
 地 方 銀 行 125 5 3,275 24 575 8
  福 岡 銀 行 85 3 535 4 275 4
  山 口 銀 行 - - 340 3 100 1
 そ の 他 130 5 820 6 109 1
 合   計 2,580 100 13,462 100 7,566 100

出典:九州経済調査会『九州経済の現状』1956年171、174ページ。

 こうした過程は同時に、資金調達が東京本社に移され、八幡での銀行取引が縮小される過程であった。1955年3月末には八幡での借入残高は11億8千万円であったが、1956年3月末には4億円、さらに同6月末には2千万円に減少したのである。これに伴い、取引地方銀行は福岡、山口、大分、親和の4行に絞られた(30)。結局、八幡製鉄所の金融は本社でなされ、興銀を軸とする長期金融機関、富士、三菱を中心とする都市銀行が担い、地元の福岡銀行や山口銀行はこれら都市銀行を補完するに過ぎないのである。
 さて、第二の北九州の金融上の特徴は、都市銀行の比重が戦前同様に高いということであろう。都銀、地銀別に北九州の銀行貸し出しを見ると、その比率は1953年10月末で68対32となっている。これは膨大な工場群の多くが中央大企業の工場であるために、これら出先機関が旧来から結びつきの強い都市銀行に金融を依存し、不足分についてのみ地方銀行に結びつくに過ぎないからである。
 ところで、これら北九州の都市銀行は預貸率、言い換えれば地元への資金還元率が著しく低くなっていることを見落としてはならないであろう。1952年6月末で、全国の平均預貸率102%に対し、北九州都市銀行の預貸率は66%。つまり預金の34%が流出していくのである。貸し出しの特徴を業種別にみると、北九州の産業構造に対応して、鉄鋼、石炭、窯業、化学工業が大きな比重を占めている(第17表参照)。かつて大きな比重を占めた石炭鉱業について触れておくと、石炭鉱業への貸し出しは鉄鋼に次ぐ地位を占めるものの福岡と比べるとかなり少なく筑豊への鉱業金融はむしろ福岡を中心に展開されている。しかし、石炭卸売業への貸し出しは福岡に匹敵しており、若松は当時依然石炭金融の中心であったといっていい。実際、1954年には若松における銀行総貸出高の77%が石炭関係への貸し出しだったのである(31)

第17表 山口・北九州こおける銀行の業種別貸出高(1953年6月末)

業種別 山 口 門 司 小 倉
八 幡
若 松
 総   額 25,679 100 4,113 100 8,887 100 4,236 100 3,821 100
 製 造 業 10,641 41 1,605 39 5,406 61 2,714 64 558 15
   食 料 品 1,461 6 - - - - - - - -
   化学工業 3,009 12 621 15 - - - - 212 5
   硝子土石 686 3 369 9 - - 242 6 - -
   第1次金属製品 1,705 7 - - 2,999 34 1,970 47 - -
 漁業水産養殖業 1,686 7 18 - 35 - - - - -
 鉱   業 2,317 9 78 2 436 5 134 3 1,576 41
 建 設 業 543 2 62 2 119 1 192 5 - -
 商   業 6,472 25 1,799 44 2,496 28 1,061 25 1,289 34
 運 輸 通 信 1,210 5 457 11 208 2 32 1 204 5
出典:『山口県統計書』、門司市『関門経済史。第2輯、170ページ
備考:戸畑は業種別の貸出が不明のため割愛した。山口は1953年度末。

 若松が石炭金融一色であったのに対し、他の北九州各市と下関の貸出先はやや異なっている。門司では商業部門や運輸通信業、化学工業への貸し出しが多い。小倉では第一次金属製造業と商業への貸し出しが大部分を占めている。八幡では第一次金属製造業に貸し出しが集中し、商業部門は絶対的にも相対的にも最も少なくなっている。しかも八幡は八幡製鉄を抱えているにもかかわらず第一次金属製造業への貸出高は小倉市よりも少ない。これは前述のごとく八幡製鉄への貸し出しは北九州ではほとんどなされていないことを物語っているのである。下関は化学工業、食料品が多いが、とくに目立つのは漁業水産養殖業への貸出である。同市の基幹産業は漁業であり工業出荷額で上位を占める食料品や輸送機械もその多くが水産業と関わっている。下関の金融はこうした水産業関連への融資がかなりの比重を占めていた。
 以上要するに、北九州の金融は都市銀行が優位に立ち、石炭鉱業と重化学工業への貸し出しを中心になされていたけれども、北九州の大工場自体は資金調達の大部分を本社に依存していた。運転資金は東京・大阪から送金され、北九州で回収された売上代金はほとんどすべてが本社に送金されたのである。
 ところで、普通銀行における都市銀行優位の構造は、中小金融機関を含めるといささか異なってくる。いま、1953年の北九州における各種金融機関の資金量を見ると、総資金の75%が銀行で、相互銀行22%、信用金庫11%となっている。全国平均が銀行84.1%、相互銀行9.6%、信用金庫6%となっているから、北九州の相互銀行、信用金庫の比重はかなり高いと言わなければならない。都市銀行が優位を占める北九州は同時に中小金融機関が相対的に優位に立っている都市であったのである。
 中小金融機関がこうした優位を示したのは、都市銀行の大企業偏重の貸し出しに大きな原因があったと言っていい。都市銀行は、全国平均では貸出高の30%を中小企業に振り向けているのに、北九州では貸出高のわずか10%しか貸し出さなかったのである。この結果、北九州における中小企業貸出高を金融機関別比率で見ると、銀行は43%しか占めなかったのに対し、相互銀行、信用金庫がそれぞれ全国平均を大きく上回る比率を占めることになった(第18表参照)。北九州では、中小企業金融は相互銀行と信用金庫が極めて大きな役割を担っていたのである。北九州を有力な地盤とする西日本相互銀行、福岡相互銀行、正金相互銀行が県内に三行もひしめきながらそれぞれ全国有数の相互銀行たりえるのも、また当時の北九州各市の信用金庫が全国の平均的規模よりもかなり巨大であったのも、北九州各市の市民にそれだけ重要な割を果たしていたからであろう。

第18表 1953年の中小企業貸出残高に占める各種金融機関の比率(単位:%)


地域別 銀行 相互銀行 商工中金 国民金融公庫 信用金庫
信用組合
合計

全国 66 18 3 2 11 100
福岡県 49 33 7 2 9 100
北九州 43 31 4 2 20 100

出典:門司市『関門経済史』第2輯、186ページ。

4 結びにかえて
 ドッジラインによって新たな軌道に乗せられ、朝鮮戦争を経て急速に資本を蓄積した我が国経済は、1955年、折からの世界的好況を背景に、朝鮮特需で得た外貨と従属を代償とするアメリカからの技術・資金援助とを基礎にして、活発な設備投資を開始した。経済成長の開幕である。以後幾度かの停滞を経ながらも、熱狂的な設備投資を基軸に史上空前のテンポで日本経済は膨張を遂げていくことになる。
 1955年以降の膨大な設備投資は、企業の自己資金(内部資金)だけでは賄い得るものではなかったから、各企業はその資金を銀行借入金に依存した。都市銀行は大企業の積極的な資金需要に応じて、実質預金を上回る貸し出しを行い、不足する資金は日銀信用に依存する一方、その他金融機関からのコール・マネーやこれら金融機関による協調融資あるいは金融債引き受けによってカバーされた。こうして、日銀信用に支えられた都市銀行を基軸とし、その他金融機関に補完的な機能を負わせて大企業への融資集中を図るという融資集中メカニズムが形成され、典型的なオーバー・ローン体制が定着した。
 北九州や下関の金融機関もこうした体制のなかに組み込まれたが、かかる融資集中体制は金融の中央集中をますます促進するものにほかならなかったから、前述した北九州の金融の特徴がこの経済成長期にもますます明瞭になったと言ってよい。 北九州市が成立する前の1962年の北九州の金融状況を最後に見ておこう。まず、銀行店舗数は57、このうち都市銀行が23、地方銀行が30、信託銀行が4となっており、高度成長期に戦前以来初めて地方銀行が都市銀行を店舗数で上回った。これは、北九州に工場を有する大企業の金融は前述のようにすべて本社でなされたから、預金の吸収や出先工場への送金業務を別とすれば、北九州は都市銀行にとってそれはどの重要性を持たなくなったからであり、地方銀行にとっては屈指の工業地帯である北九州は恰好の貸出先であったからであろう。中小金融機関が相対的に大きな比重を占めるという事情も変わらなかった。金融機関別の預金・貸出比率をみると、預金・貸出とも中小金融機関が大きく伸びており、特に相互銀行の伸張が著しかったのである(第19表)。業種別の貸し出しの特徴を見ておこう(第20表)。重工業への貸出比率が依然高いが、その内容はいささか変化している。すなわち、鉄鋼、化学の比重が大きく低下し、代わって窯業と機械器具・電機機械器具への貸し出しが増大したのである。前者が東京大阪の大企業であるのに対し、後者の部門を担う企業が黒崎窯業や東陶、安川電機などの地元大企業であったからであろう。

第19表 1962年における北九州・下関の金融機関別預金・貸出高と預貸率(単位:百万円、%)

金融機関 預   金 貸   金
預貸率
北九州 下 関 北九州 下 関 北九州 下関
銀 行 119,382 70 41,385 77 86,041 65 33,509 68 72 81
相互銀行 35,677 20 7,242 13 32,337 24 7,828 16 91 108
信用金庫 16,628 10 5,266 10 14,165 11 7,886 16 85 150
合計 171,687 100 53,894 100 132,543 100 49,222 100 77 91
出典:北九州は北九州市『北九州統計年鑑』、下関はみなと新開『下関市年鑑』。

 さて、貸出先の最大の変化はかつて鉄鋼とともに最大の比重を占め、戦前における門司金融市場の繁栄を築いた石炭鉱業への貸し出しが激減したことであろう。エネルギー政策の転換とともに石炭鉱業は急速に斜陽化していったからである。
 華やかな経済成長の開幕は、日本資本主義の発展をエネルギー面から支え、近代北九州興隆の推進力であった石炭鉱業の終幕でもあったのである。

第20表 1962年の北九州における業種別貸出高(単位:百万円、%)


業   種 貸出高 比率

 鉱     業 2,691 2
 建  設  業 7,394 7
 製  造  業 43,644 41
   食  料  品 1,857 2
   化 学 工 業 4,438 4
   窯業土石製品 8,078 7
   鉄  鋼  業 6,533 6
   金 属 製 品 3,301 3
   機 械 器 具 4,130 4
   電気機械器具 4,677 4
 卸  売  業 30,916 29
 小  売  業 4,851 5
 運 輸 通 信 業 5,520 5
 合   計 107,718 100

出典:『第1回北九州統計年鑑』。
備考:合計にはその他を含む。

 
 以上、関門地域金融の展開過程を検討してきた。それによれば、1920年代関門地域は我国屈指の地方金融市場であった。関門地域が九州・山口の「金融中枢」として発展しえたのは1.日銀西部(門司)支店の設置、2.筑豊炭坑の発展、3.大陸(中国・朝鮮)一本州、九州一本州の物資輸送の結節点、4.八幡製鉄所を軸とする北九州工業地帯の発展という諸条件に支えられていた。しかし、これら関門を金融的に発展せしめた要因は戦時統制経済以降順次失われていった。すなわち戦時統制経済のもとで、日銀や興銀などの政府系金融機関、さらには統合された地方銀行や無尽会社の本店が行政都市福岡に集中し、関門地域はもはや主たる金融取引の地ではなくなったのである。敗戦によって、大陸や朝鮮半島との貿易拠点としての優位も失った。戦後の経済復興期には炭坑や製鉄業の回復・発展によって、北九州経済も大きな発展を遂げるが、これら産業の発展を支えた金融取引の多くは福岡でなされるか、大企業と都市銀行との本社・本店取引として展開された。また、高度成長の幕開けとともに、北九州発展の推進力であった石炭業は衰退していったのである。

(1)ここで関門地域という場合、現在の北九州市と下関市を指している。ただし、統計上、しばしば門司、下関所在銀行のみで関門を代表させている場合もあることを断っておきたい。
(2)『門司新報』大正12年6月30日。
(3)『日本金融史資料明治大正編』第24巻、931ページ。
(4)『門司新報』大正8年1月25日、同年8月16日、大正12年7月13日、大正13年2月6日などによる。
(5) 日本経営史研究所『三井銀行史料4』1977年、790ページ。
(6)『門司新報』大正13年2月6日。
(7) 日本経営史研究所『三井銀行史料4』1978年、42〜45、546ページ。
(8) 同上、790〜791ページ。
(9) 前掲『三井銀行史料6』552ページ。
(10) 前掲『三井銀行史料4』789ページ。
(11) 日本銀行門司支店『金融報告』1927年7月。
(12)『北九州市史 近代・現代II』1992年、1176〜1177ページ。
(13) 日本銀行門司支店「関門地方二於ケル下級金融機関」1913年6月(日本銀行『明治大正金融史資料』第25巻、1961年、53ページ)。
(14) 興銀福岡支店の貸出は1941年頃から急増し、1944年9月には1億3800万円に達した。そのうち、3940万円が石炭金融であった(日銀福岡支店「九州二於ケル中小炭鉱金融事情」1943年12月、日本銀行『各支店重要回覧』)。
(15) 東洋経済新報社『地方金融の検討』1942年、146ページ。
(16) 三池鉱山の出納業務を行っていた三池銀行は、経営環境の悪化から三井の支援を受けており、事実上三井銀行の支店化している現状から、三井銀行に本店が譲渡された。北部の支店は筑邦銀行に、南部の支店は肥後銀行に譲渡された。
(17) 大蔵省銀行局「普通銀行ノ整備方針要綱(未定稿)」1942年12月(『日本金融史資料昭和編』第34巻、1973年、492ページ)。
(18) 同上、492〜493ページ。
(19) 安田保善社『第124回理事会会議録』1944年2月19日。
(20) 日本銀行考査局「山口県下銀行合同二関スル件」1943年4月、同「長周銀行ノ欠損補填問題二付テ」1943年9月(日本銀行『日本金融史資料昭和続編』付録第4巻、1988年、147ページ)。
(21) 同「長周銀行ノ欠損補填問題二付テ」1943年9月(同上、147〜148ページ)。
(22) 山口銀行『山口銀行史』1968年、660ページ。
(23) 石炭金融について、福岡と若松からの融資を比較すると、1944年9月末で福岡所在銀行の貸出は7677万円であるのに対し、従来の石炭金融の拠点だった若松からの貸出は1027万円に過ぎなかった(前掲「九州ニ於ケル中小炭鉱金融事業」)。
(24) 安田銀行八幡支店『八幡支店業況報告書』1943年。
(25) この点について、日鉄本社の理財課長らは次のように述べている。「日鉄本社二於ケル各行ノ八幡二対スル割込運動ハ実二猛烈ナリ。実ハ帝国ノ明石氏(明石照男帝国銀行会長一引用者)ヨリモ漢縷々八幡ノ取引ハ何トカナラヌカト実二責メラレル、又住友ノ猛烈ナ運動ハ酷イ、圧政的トデモ云フ様ナ恰好ニテヤッテ来ル。」「自分モ三菱ノ幹部カラ相当注文ハツケラレテ居ル」(安田銀行八幡支店「八幡製鉄所取引二関スル件」1943年12月『富士銀行所蔵資料』)。ここから他行の猛烈な運動が窺えよう。
(26) 安田銀行八幡支店、前掲資料。
(27) 日本興業銀行『日本興業銀行五十年史』1957年、596ページ。なお、安田銀行支店の場合黒崎窯業の指定金融機関として敗戦時13,786千円を同支店から融資していた(安田銀行『軍需会社に関する書類』)。
(28) 1948年9月末の業種別貸出の仝貸出額に占める比率を上位から見ると、石炭鉱業34%、化学16.1%、物品販売業7.9%、水産業7.3%となっている(山口銀行、前掲書、718ページ)。
(29) 若松市『若松市史』第二集、1959年、802ページ。
(30) 九州経済調査会『九州経済の現状』1956年、173ページ。
(31) 若松市『若松市勢要覧』1953年、121ページ。