BACK
 
 

開設の趣意

2001/05/30 掲載
 
 
 私は、平成4年4月に下関市立大学に着任しました。それ以前は、近県の国立大学で小講座制の助手を務めていました。しかも、その研究室で任期制を導入した最初の助手でした。法令上、公務員の採用に際して任期を定めることはできませんが、内々に助手に任期を定めることは、国立大学では珍しいことではありませんでした。
 
 しかし、その研究室の任期制はおおやけになって社会問題化しました。その結果、私の助手の任期は破棄されました。通例こういう場合、「そんなに助手を辞めるのがイヤなら、定年まで助手を続けたらどうですか」ということになります。そんな経緯があって助手を務めていたところに、下関市立大学へのお誘いをいただいたわけです。
 
  正直なところ、下関市立大学に着任して驚きました。研究棟では、廊下や研究室に雨漏りしています。さらに驚いたのは、それを修理しようと努力しているようにも見えないことでした。施設を管理する職員の人たちはいったい何をしているのでしょう。施設に限らず、そもそもこの大学は、学術研究や高等教育の機関として十分に機能しているようにも見えませんでした。私は考え込んでしまいました。
 
 着任2年目の春、私は、下関市立大学の設置者である当時の亀田下関市長に問い合わせの文書を送付しました。「この大学の職員配置には問題があるのではないですか。」職員課長から直々に回答をいただきました。「たしかに大学の職員配置には問題があります。でも、本庁や支所の窓口に置けない職員は、大学に置くしかないでしょう。それも市民の目に触れない図書館のようなところです。」
 
 こういう場面に直面したとき、大学教員としての標準的な選択肢は次の通りです。つまり、直ちに次の転出先を探し始める、ということです。しかし、私には最初に述べたような経緯があり、言わば下関市立大学に救済していただいたわけですから、この選択肢を採用することはできませんでした。ご恩返しをしたいと思っていたからです。せめてこの下関市立大学が大学として少しでも良くなるように貢献したい、そう考えました。 
 
 そこで、当面、設置者である下関市の施策も含めて、この大学がどのような大学なのかをじっくり観察することにしました。教授会の資料に限らず、できるだけ資料を残すことにし、とくに職員の配置については、毎年の職員異動の内示文書を収集することにしました。職員配置には、設置者である下関市の大学に対する姿勢が如実に示されていると考えたからです。
 
 もう1つは大学財政です。設置者である下関市は、この大学を通してどのような行政を行おうとしているのか、この点は大学予算にもっとも的確に示されています。「大学関連で入るお金を使って市の財政の穴埋めをしている」という陰口は、私が着任して以来の推移を見る限り、あながち根拠のないものとは言えません。
 
 この「大学財政」のページは、いわゆる内部告発や暴露本のような性格を持つものではありません。掲載しているデータは、すべておおやけに公開されているものばかりです。それにもかかわらず、これまで、下関市立大学の異常な財政構造が社会的な論議になることはありませんでした。その主要な原因の1つには、大学側からの発言が希薄であったことが挙げられるでしょう。
 
 着任以来10年を迎え、下関市立大学のみならず、下関市全体の今後を憂えるとき、そろそろ何か発言しないといけないなあ、という思いに突き動かされて、このページを開設することにしました。なお、作成にあたって、『分権時代の公立大学』(公立大学協会、2000年)、および各年度の『公立大学の財政』(公立大学協会)を参照しています。
 
 

 
職員課長のこの発言は、その後の私の教員生活の中で、澱(おり)のように心の底に沈殿し続けています。ある機会に、現江島下関市長に、この発言について問い合わせをしたところ、以下のようなメールをいただきました。
 過去の件について、私が「言い訳」めいた事を言うのも変ですが、少し弁護する形になるかも。ご承知のように、行政サービスには種々なものが含まれます。直接、市民との折衝に当たる者、県・国との調整に従事する者、内部データを扱う者、・・・本来であれば、全ての人が与えられた職務を全うできれば良いのですが、対人折衝が得意な人もいれば、不得手な人もいます。西田先生が遭遇されたケースも、その一例だったのでは?・・・と、いくら言っても、いい訳めくかもしれませんが。(1998/10/03、一部を転載)
 現市長は、この発言を当該職員課長の個人的な資質の問題と捉えておられるようです。でも、私は、まったく別の機会に、別の部局長クラスの職員からも同内容の言葉を聞かされたことがあります。大学に対するこのような認識は、個人的な認識にとどまるものではなくて、過去のある時期、下関市役所の部局長クラスの共通認識であった、という印象を払拭できないでいます。