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理事長室より

猿橋賞と「リケジョ」(2014年4月28日)

 先日、第34回(2014年)猿橋賞が一二三恵美(ひふみ えみ)氏に決定した。受賞研究題目は「機能性タンパク質『スーパー抗体酵素』に関する研究」である。抗体は特定の分子(抗原)を認識して特異的に結合する糖タンパク質であり、脊椎動物の免疫を担う分子として研究・活用されてきた。公表された受賞理由によれば、一二三氏が作成した抗体触媒「スーパー抗体酵素」は、標的タンパク質を目的通りに攻撃・破壊する性能を持っており、独創的な研究で新領域のさらなる開拓が期待される、というものであった。一二三さんの受賞は新聞各紙で取り上げられたが、『朝日新聞』の「ひと」欄の記事を紹介する。

 大分大学教授・一二三恵美さん(50)は、山口県宇部市で看護師の母を見て育った。手に職をつけようと臨床検査技師を目指して進んだ短大は予想外の厳しさ。要領が悪くひとより実験に手間取ったが「体力勝負」で粘る姿勢が身についた。
病院に就職口はなく、企業で検査試薬の開発に携わった。数年後、研究室の閉鎖が決まった。「新しい実験手法も思いつき、やりたいことが見えてきた時期だった」。広島県立大学(当時)の助手の募集を見つけ、大学に転じた。
発見のきっかけは学生実験。指導していた実験が失敗した。原因を探るうちに本来は起きない妙な現象に気付いた。「最初は何だかわからなかった」。納得できなかった。実験ミスの可能性をつぶすために2年間、条件を変えて愚直に実験を繰り返し、正体を突き止めた。
周りに支えられ、目の前の課題を一つずつ解決してきた。「本流でない私はすぐに結果を求められず、長く続けられたことが成果に結びついた」。実用化の道筋も見えてきた。ここまできたら世の中に役立たせる。意地だ。

 この記事は、一二三さんの人生と研究に取り組む姿勢、とくにあきらめないこと、本流でなくてもくじけないこと、失敗の原因究明の大切さを教えてくれる。そういえば、ノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんの研究も失敗を利用しての発見だった。タンパク質は生物の身体を構成する重要な物質であるが、その重さを測るには、分子をイオンにして分析機器にかける必要がある。田中さんは、この「タンパク質のイオン化」に取り組み、レーザーを用いてイオン化する研究を進めていたが、タンパク質のような高分子はレーザーの熱で破壊されてしまうという難点があった。そこで、レーザーを吸収する物質が必要となるが、そのために金属微粉末を混ぜていたが、ある時誤って「グリセリンとコバルトの微粉末」を混ぜた。失敗した実験結果の試料はふつう捨てるが、田中さんがその試料を分析してみると、タンパク質がイオン状態になっていた。その後研究を重ね、ノーベル化学賞の対象となった「ソフトレーザー脱離法」を完成させたのである。
 (田中耕一氏の研究については、国立博物館 ノーベル賞日本人受賞者9人の偉業
 https://www.kaghaku.go.jp/exhibitions/tour/nobel/による。)

 ところで、「リケジョ」である。いつの頃からか、「リケジョ」という言葉が話題になってきた。そして、最近では「リケジョ」という言葉を聞かない日はないようである。一二三さんは、最先端の研究成果をあげた方で、「リケジョ」と呼ぶにはふさわしくない。
 「リケジョ」とは、インターネット百科事典kotobank(コトバンク)によれば、「理系女子のこと。2011年10月14日発行の米国の物理化学専門誌「The Journal of Physical Chemistry」に、茨城県立水戸第二高校を卒業した女子学生らの論文が掲載され、理系女子への注目が集まった。このことは、各メディアで「リケジョ」の快挙として報じられた。論文は、女子学生ら5人が同校の数理科学同好会所属中に行った、「BZ反応」と呼ばれる実験から得られた化学現象の発見に基づくもので、権威ある専門誌への高校生の論文掲載は世界的な快挙と見られている。」とのことである。
 当時、社会的には理系の科学者を目指す女子学生は少数派だとみられており、「リケジョ」には彼女たちを励ます意味が込められていたと思われる。この手の言葉には、対象をやや揶揄するような響きもあり、「リケジョ」もそのような運命をたどっているようにみえる。
 いまは大学・短大等進学率は女性が男性を上回っているが、旧制の帝国大学では、女子の入学は認められていなかった。門戸を最初に開いたのは、東北帝国大学(現東北大学)で、1913年に3名の女子学生が入学した。2名が化学科、1名が数学科であった。「リケジョ」の誕生である。化学科の2名は卒業後も研究者として活躍した。数学科卒業の1名はその後洋画家と結婚し、その画業を支えつつ、研究も継続したという。1920年の大学令によって帝国大学以外の大学の設置が認められて以降、大学も増加し、女子学生も増加していった。戦後になり、新制大学の誕生、女性の社会進出にともなって、女子の大学進学者も増加し、また女性科学者の活躍も目覚ましくなってきた。
 しかしながら、女性科学者の置かれた環境は非常に厳しいものであった。猿橋賞はこのような状況の中で設けられた。猿橋賞は、気象研究所地球化学研究部長だった猿橋勝子博士の退官を記念して1980年に設立された「女性科学者に明るい未来をの会」が「自然科学の分野で、顕著な研究業績を収めた女性科学者」に授与する賞である。第1回(1981)から今回の第34回まで毎年ひとりずつに授与されてきた。(猿橋賞については、「女性科学者に明るい未来をの会」のホームページによる。)
 本学は文科系の大学ではあるが、学生諸君には女子学生たちが切り開いてきた学問、研究の道を継承してほしい。一二三さんのように、あきらめず、本流でなくてもくじけず、失敗の原因を究明する、という姿勢を学んでほしい、と思うのである。