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理事長室より
「書を捨てよ」(2014年12月8日)
読書の秋といわれる。秋には様々な読書に関する催しも多い。小中学校では、読書月間や読書の日などを設けて、読書指導を行うところも多いと聞く。また、大学や図書館、書店などで読書を勧める仕掛けやイベントが催される。最大の催しは読書週間であろう。第1回の読書週間は1947年の開催で、本年は第68回読書週間で、10月27日~11月9日の14日間で行われた。標語は「めくる めぐる 本の世界」だったそうである。すでに今年の読書週間は終了しているし、12月に入って「読書の秋」も過ぎ去ったが、学生諸君の読書の秋は稔りあるものだったろうか。「笛吹けど・・・・」が気になるところである。
毎日新聞は2014年9月15日に「読書の秋 若者よ、本を開こう」と題する社説を掲載した。そのなかで、全国大学生活協同組合連合会の昨年の調査によると、「まったく本を読まない」という学生が40.5%に達し、調査を始めた2004年以降、初めて4割を超えたと報じ、「書物に親しむべき大学生の実態は衝撃的であった」と指摘した。私は「若者よ、本を開こう」のような言葉に接すると、寺山修司の『書を捨てよ、町に出よう』(1967年)という本を思いだす。
寺山修司『書を捨てよ、町に出よう』は1967年に芳賀書店より刊行され、1975年に角川文庫として改版刊行された。私が持っているのは角川文庫版で1995年発行の32版である。1967年は私が大学を卒業して会社員になった年であり、幾分「書を捨てよ」という気分もあって、私の書棚にあった書籍の多くを後輩たちに譲った。が、書を捨てることはできず、書を読むことは続けた。その間も寺山の本は気になっていたが、読むこともなく過ごしてきた。九州大学経済学部で講義と演習を担当することになって、学生たちがあまりに「書を読まない=捨てるべき書を持たない」のにびっくりして、寺山の本を読んでみる気になったように記憶している。読後感は、「捨てるべき本を持っている人間」による「捨てるべき本を持っていない人間」に対する、ひねりの効いたギャグタイトルかと思った。今回改めて読み返してみて、高度成長期の時代変容に鋭く迫る問題提起の書であることに気が付いた。随分回り道をしたものである。
1960年代には、高度成長によって「豊かな社会」が誕生し、いわゆる「総中流化」が進行した。一方で三種の神器に代表されるような消費社会が形成され、他方で大学の大衆化が進むとともに、既成の権威が問われ、「大学紛争」が多発した。60年安保改定反対、ベトナム反戦などの大衆運動も高揚した。このような時代の変化の中で、若者たちは自己の存在意味を問いかける模索をはじめ、カウンターカルチャーやサブカルチャーが生み出された。「朝日ジャーナル」と「平凡パンチ」、丸山眞男と吉本隆明、松竹映画の蒲田調とヌーベルバーグ、新劇とアングラなどなどは、この時代を映し出すキーワードといえよう。
寺山修司は、1935年に青森県に生まれ、5歳の時に父が出征し、そのまま戦没した。生活苦のため母とは別居と同居を繰り返した。54に年早稲田大学教育学部国文学科に入学し、短歌会などで活動したが、長期入院を余儀なくされ、56年に退学した。その後、歌集の刊行、戯曲、ラジオドラマ、映画シナリオの執筆、詩集の編集などで注目された。そして、1967年に劇団「天井桟敷」を結成し、評論集『書を捨てよ、町に出よう』を刊行した。
『書を捨てよ、町に出よう』は1967年版と1971年版とはかなり異なっている。私の読んだ版には、1960年代の日本及び若者の姿が活写されている。71年版の目次及び主な収録文をあげておこう。
目次は、第1章「書を捨てよ、町に出よう」、第2章「きみもヤクザになれる」、第3章「ハイティーン詩集」、第4章「不良少年入門」という構成である。第1章には、「青年よ大尻を抱け」「月光仮面」「歴史なんか信じない」など、第2章には、「裏町紳士録」(パチンコ、ホステス、サラリーマン、ガンマニアなど)、競馬・野球・ボクシング評論、賭博評論、第3章には、「百行書きたい」「絶望の季節」「私自身の詩的自叙伝」など、第4章には、「不良少年入門」「家出入門」「歌謡曲人間入門」など、が収録されている。
また、寺山修司は、カルメン・マキ「時には母のない子のように」(1969年)の作詞、篠田正浩監督作品「夕陽に赤い俺の顔」(1961年、キャストは川津祐介、岩下志麻、炎加世子、渡辺文雄、西村晃、平尾昌晃など)の脚本を書いている。天井桟敷と状況劇場との乱闘事件(1969年)は当時の話題を呼んだ。
「書を捨てよ、町に出よう」という文言は、アンドレ・ジッドの『地の糧』からの引用であるとよく指摘される。寺山は確かに『地の糧』を読みこんでいたようだ。「私自身の詩的自叙伝」の「二十一歳」には、「地の糧」には実感の世界はないとしたうえで、「私は次第に病状が快方に向いはじめると共に、ブッキッシュな生活から遠ざかろうと思いはじめた。まさに「ナタナエルよ、書を捨てよ。町に出よう」という心境が私のものになったのだ」と書いている。
私は『地の糧』は読んだことがなかったので、本学図書館から『世界文学大系 50 ジイド』(筑摩書房、昭和38年)を借り出し、収録されている「地の糧」(岡部正孝訳)を読んでみた。「地の糧」は架空の読者であるナタナエルに語りかける散文詩という形式で書かれている。この書には、「書を捨てよ、町に出よう」という言葉そのものは見当たらなかったが、「第一の書」には「ナタナエルよ、われわれがあらゆる書物を焼いてしまったらどうだろう」「感覚が先に来ない知識は、すべてわたしには不要である」と記し、ナタナエルは旅に出た。末尾の「反歌」に「ナタナエルよ、今こそ、わたしの本を捨てたまえ」という言葉が繰り返されている。ここからは、「ナタナエルよ、書を捨てよ。旅に出よう」というメッセージが伝わってくる。ナタナエルの場合はアフリカなどへの「旅」であったが、高度成長期の寺山にとっては「旅」は「町へ」であったのだろう。
このナタナエルは新約聖書のヨハネ福音書第1章に登場する人物で、イエスは出会ったナタナエルに対して「もっと大きなことを、あなたは見るであろう」と告げている。ジッドは、ナタナエルが旅の中で、大きな体験をすることを暗示している、と受け止めたのかもしれない。
さて、である。書と町・旅とは必ずしも対立するものではない。書から町・旅に出てもよいし、町・旅から書を見つけてもよい。どちらにしても大切なことは、チャレンジすることだろう。新たなチャレンジのためには、過去との決別=本を捨てることもあるだろうし、過去からの未来の模索=本の新たな読みも必要となろう。本を読まない若者が多いという現状をみると、「若者よ、捨てるべき本を持とう」と呼びかけたい。
■参考資料
・ウィキペディアより、「寺山修司」「書を捨てよ町へ出よう」「アンドレ・ジッド」
・テレビ番組より、昭和偉人伝「僕の職業は寺山修司です」、NHKアイブス「シリーズ1964 第3回 若者が文化を生んだ時代〜「平凡パンチ」「ガロ」創刊〜」